生と死との記録
豊島与志雄

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)堯《たかし》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)五|瓦《グラム》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]
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 十月十八日、空が晴れて日の光りが麗しかった。十二時少し過ぎ、私はHの停留場で電車を下りて家へ歩いて行った。賑かなM町通りを通っていると、ふと私は堯《たかし》に玩具を買って行ってやろうかと思った。玩具屋の店先には種々なものがごたごた並べてあった。私はその方にちらりと目をやって頭を振った。そんな考えが私に起ったのは、非常に珍らしかったのである。そして何だか変だった。空を仰ぐと、青く澄み切った大空が円く悠久な形を取って私自身を淋しくなした。
 私は何時ものように性急に歩きながら、寺の間の静かな通りを自分の家に帰って行った。
 玄関にはいると、常《つね》が一人私を出迎えた。私は一種の物足りなさを感じた。私が勤めから帰って来ると、いつも芳子かS子さんかまたは常かが、堯を後から抱えるようにして歩かして出迎えるのが普通だった。堯は笑い乍ら飛びはねるようにして出て来るのであった。
 私は黙って靴を脱いで茶の間に通り、それから座敷の方を覗いた。いつもの蒲団を敷いて堯は寝ていた。芳子が側に坐っていた。
「どうかしたの。」と私は云った。
「ええ。」と芳子は不安らしい眼を挙げた。そしてこんなことを話した。――十時頃堯はいつものように昼寝をした。十二時に眼を覚した。がっかりしているようで元気が無かった。額が熱かった。熱をはかると九度八分に上っていた。驚いてまた寝かすと、そのまま眠ってしまった。
 堯は咋年の一月十一日に生れて、丈夫に育っていった。所が六月に百日咳にかかった。丁度私達のことをよく知ってるSという小児科専門の医学士が居たので、その人に診《み》て貰って、そうひどくならないうちに癒ってしまった。それから八月の末に消化不良にかかった。ごく軽かったので近くのTという医師に診て貰って居たが、いつまでもよくならなかった。いつの間にか病気は慢性になった。私はまたS医学士の手を煩わした。病気がひどくなって危険なことも二三度あった。私に似て呼吸器も弱かった。がS氏の手当に依ってどうかこうか生命を取り留めた。S氏は大学の研究所の方の忙しい仕事の合間にいつも私の家を見舞ってくれた。病気が軽くなると、芳子は堯をだいて常を連れて、大学のS氏の許へ通った。そして今年の五月頃からはもう時々しか薬も取らなくていいようになった。粥をすすって魚肉を食べるようになった。百日咳以来約一年間に及ぶ病気に衰弱し切った身体も、少しずつ恢復してゆくようだった。私達は一年間の心労からほっと息をついた。
「よくもったものだ」とふり返って考えた。そしてその頃からT式抵抗療法の方のKという女の人に毎日私の家へ来て貰って、十分か十五分ずつ腹を揉んで腸の働きを活気づけて貰った。八月末からは、K氏にも三日に一度位来て貰えばいいようになった。九月なかばからは一週に一度になった。
 堯は少しずつ、ほんの少しずつ、一年間の衰弱から脱して肥っていった。もう他人の手をからないでも、自分一人で生長してゆけるようになった。時々便の加減が悪かったり熱が出たりしたが、それもすぐに癒った。物につかまって歩けるようになった。そして頭の方も著しい発達をして来た。何でもよく分っていた。私達は喜んだ。N神社の祭礼には、小さな万燈《まんどん》を買ってやると、それを手に持って、後ろから人に身体を支えさせながら、家の中を駆け廻った。
 芳子は二度目の児を妊娠していた。九月末か十月初めに出産の予定だったが、まだそれらしい模様も見えなかった。少し後れても心配はいらないと産婆は云った。「心臓の鼓動が多いようだから屹度女のお児さんでございますよ。」と云われた。それで男と女と一人ずつで丁度よくなるのであった。
 私はその日、堯の顔を覗き込んだ。よく眠っていた。額に手をやると、まだ熱があったが、少しは減じたようだった。でもとにかく一寸した時にかかりつけの近くのU医師を呼ぶことにした。「大丈夫だ!」と私は云った。
 私達だけ食事をした。食事の時はいつも、堯は私の足座《あぐら》の中に坐って物を食べた。その日は堯が眠っているので、珍らしく餉台の前に一人で坐ると、私は妙に物淋しかった。
 食事がすんで暫くすると、堯は眼を覚した。抱いてやってもぐったりしていた。食麺麭の切れを持たしたが食べようともしないですぐに捨ててしまった。食物を取るようになってからも、昼と晩とだけ堯は粥を食べて、朝はいつも山羊乳に食麺麭を食べていた。それから食事の間にも、砂糖分の多い菓子は腸にいけなかったので、物を欲しがる時はいつも食麺麭をやっていた。それを堯はいつも大変喜んでたべた。毎日、少し遠かったが品がいいのでA堂から、麺麭を配達して貰っていた。がその日はその麺麭をも手にしなかった。「どうしたんだろう。」と私は芳子と顔を見合った。然し別に堯は泣きもしなかった。ただしきりに眠そうであった。
 間もなくU医師はやって来た。一通り診察がすんだ。腸に大分食物が停滞しているとのことだった。然し別に心配するほどではないとのことだった。長い間ひどい腸の病気に悩んで来た後だったので、そしてそういうことはよくあったので、私は別に驚きもしなかった。
 氷枕で頭を冷やし、また額も冷してやった。四時すぎに一回便通があったが、大して悪い便でもなかった。五時に医者の許から貰って来た薬を与えた。熱をはかると七度六分に下っていた。
「やっぱり何でもなかったようだね。」と私は云った。
「熱が下れば宜しいんですわね。」と芳子は答えた。
 然し私達は何だか心の底で不安だった。妙に堯は睡眠を欲しているらしかった。それでも食事の時にははっきり眼を開いていたので、私は褞袍にくるんでいつものように足座の中に抱いてやった。粥を止して、麺麭をやった。その二片を堯は食べた。それから山羊乳を五勺足らず飲んだ。
 六時すぎに下痢が一回あった。真青な便だった。八時頃また一回下痢した。青い色が妙に濃く黒ずんでいた。そしていつもうとうとと眠っていた。
 私達は悪いと思うとまた急に不安になった。堯については私達は昨年以来たえず腸で脅かされて来た。その上咋年の夏以来私達の近しい身内の者で病死した人が三人もあった。病気や死に対して神経が苛ら苛らしていた。で堯も容態が悪いようだったら、すぐにS医学士かまたはU医学士に診察を願おうと思った。U氏というのは、小児科では秀抜な手腕を有すると定評のある人で、最近小児科専門の病院を建てていた。
 S子さんに、堯の便を持ってすぐにU医師を訪れて貰った。すると、便の色は薬のためである、便通は薬に多少下剤が混じているので少し度数が多くなるかも知れない、然し心配のことはない、という答えだった。で兎に角[#「兎に角」は底本では「免に角」]、もう夜も遅いし、翌朝まで容態を見ることにした。
 十一時頃、堯は物を欲しがった。その日は、朝食に麺麭と山羊乳とを食べ、それから夕方同じくその少量を取ったばかりだった。で芳子は葛湯を作ってやった。そしてその少量を与えた。それから堯は暫くして安らかに眠った。熱も七度三分に下っていた。
 私達は、堯の枕頭で暫く黙っていた。が何だか非常に淋しくなった。昼間M町通りを帰って来る時ふと玩具のことを考えたことを、私は話した。「これで、坊やが病気でもひどくなると、あれが虫が知らしたとでもいうようなことになるんだね。」私はそんなことを云った。「私はまた疫痢にでもなるんではないかと思って……。」と芳子は云った。
 私達は十二時頃床についた。芳子が産期近くなってから堯は私と寝るようになったが、其晩芳子は堯を抱いて寝てやった。
 その夜中に下痢が二回あった。便の色が非常に悪かった。然し朝になっても別に容態が悪いようでもなかった。熱は六度四分だった。「この分ならいい。」と私は思った。
 私は厳格なる公務を帯びている身だった。それでいつものように六時すぎに家を出た。然し絶えず気がかりだった。そして十一時家に帰って来た。
 堯は眠っていた。容態は変っていなかった。十時頃U医師が来て腸の洗滌を一回したそうである。下痢が朝一回と、私が帰って来てから一回あった。然し此度は、便に極めて少量の黒ずんだ赤いようなものが混じていた。食慾は一切なかった。
「これはいけない。」という気がした。堯は前から消化不良がひどい時でも、食慾が少しも無いということは殆んどなかったのが、急にはっと思い出された。私は少し狼狽し出した。私の帰るのを待っていた芳子も急に騒ぎ出した。
 十二時頃になると堯はひどくぼんやりして来た。「嗜眠の状態ではないかしら。」と私は思った。
大急ぎで食事を済したS子さんに至急車を走らして貰った。「U氏かS氏か、二人共居なかったら至急誰かに……。」と私は頼んだ。U医師に無断ではと思ったが、それを断る間も待ち切れなかった。
 私と芳子とは堯の枕頭についていた。堯は欠伸《あくび》をした。
「欠伸をするのはいい方だね。」と私は云った。
「さあどうですか。」と芳子は答えた。
 然しそんなことでもいいと思わざるを得ないほど、私の心は不安になっていた。そしてその不安は本当に形になって現われて来た。
「あなた、眼が変ではありませんか。」と芳子が云った。
 私は堯の眼を覗き込んだ。両の眼球が少し寄っていた。――芳子はそういう病人の眼を見たことがあったんだそうである。昨年の夏私が国へ帰って後、妹の病気がひどくなった時、芳子は彼女の眼が寄っているのを見た。「Yちゃんあなたの眼は変ね、大変寄っているわよ。」と云うと、妹は答えた。「そうお、何だかあたし、物が二つに見えて煩くて仕様がないのよ。」その後間もなく妹は死んだ。そう芳子は私に後で話した。
 一時すぎであった。堯は両手を少し震わした、と同時に、両眼が少しぐるりと廻転した。そしてまた後は静かになった。十分ばかりすると、また同じような事が起った。「痙攣だ!」そういう考えが私の頭に電光のように閃いた。もうどうにも出来なかった。その軽微な痙攣は頻繁に襲って来た。私達はじっと堯の小さな手を握ってやっていた。顔を近寄せたり遠ざけたりしたが、もう視力も非常に衰えているらしかった。が時々微笑んだ。
 S子さんが帰って来た。私達はほっとした。――先ずU病院へ行った。氏は往診中で七時頃でなければ帰られないそうだった。ですぐに大学の研究所のS氏の所へ行った。丁度横浜へ行かれて不在中だった。それでまたU病院へ帰って来て、副院長をと頼んだ。丁度同病院には、大学の研究所へ通っていて日曜毎に出て来られるTという小児科出の医学士の人が居た。病院から大学へ電話をかけてくれた。すぐに行くというT氏の答えだった。
 私達はT氏を待った。
 二時すぎには、堯はもう殆んど意識を失ったように見えた。何を云っても、何を見せても、ぼんやりしていた。軽微な痙攣がやはり時々襲った。
 何時の間にそんな急な変化が起ったのか。ただじっと静かに苦しみもしないで寝ているうちに、堯の体内ではどんな戦が戦われたか。「坊や、坊や、どうしたの。」そう芳子は顔を寄せて云った。
 T氏の来るのが待ち遠しかった。S子さんは自分の俥を病院に残して来たというから間違いはなかろうけれど、それでも苛ら苛らしてきた。念のため病院に自働電話をかけさしに常をやった。
 常と入れ違いにT氏が来られた。すぐに一通り病状を聞いてから、T氏は診察をした。「ひどく急激に来ましたな。兎に角[#「兎に角」は底本では「免に角」]至急病院で手当をなすったが宜しいでしょう。」と云われた。
「脳は大丈夫でございましょうか。馬鹿になるようなことは……。」と芳子は云った。
「ええ脳の方は御心配はいりません。」とT氏は
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