答えた。
 T氏と私達との話で、T氏はS氏と大学の同じ研究所で研究せられている友人であることが分った。大変都合がよかった。U病院の方は万事T氏に頼んだ。氏はカンフルを堯の右腕に注射して先に帰られた。
 大急ぎで間に合せの仕度をした。私は堯を毛布にくるみなおねんねこ[#「ねんねこ」に傍点]にくるんで、胸に抱いて車に乗った。堯は半睡の状態に居た。車の中で一度軽い痙攣が来た。私は、幌の中の狭い天地に眼を伏せて、堯の額に唇をおしあてた。
 三時半病院についた。二分ばかり応接室に待たされた。それから病室に案内せられた。中庭に面した二階の六畳の室で、寝台の室でないのが気持よかった。
 医員と女医と看護婦長とですっかり堯の手当が為された。胃部には温湿布があてられた。私は医員の人から、今までの堯の病状を悉しく尋ねられた。堯はもう意識を失っていた。――熱六度三分、脈搏百、呼吸三十五。
 一先ず凡ての事が済むと、私は初めて落ち附いた。そして力強くなった。「屹度よくなる!」とそう思った。病院には他にも多くの入院患者が居た。廊下を歩き廻っている子供も居た。今日初めて粥を一杯許されて喜んでいる子供も居た。
 痙攣は全く起らなかった。然し、その代りに嘔吐が催して来た。白い粘液性の唾液みたいなものが少しずつ口から出た。医者は首を傾げた。食物も飲料も一切与えられなかった、それから薬も。
 間もなくS子さんが家から来た。病院に頼んで置いた附添看護婦も来た。
 堯は眠っていた。
 私は六時頃、S子さんに頼んで、家に帰った。
 芳子がじっと坐って、一つ所を見つめるような眼をしていた。
「どうしました。」
「同じようだ。」
「痙攣は?」
「ない。その代り嘔吐があった。」
「沢山?」
「いや唾液みたようなものを少し。」
 私達は大急ぎで食事を済した。
 芳子も病院に行くと云い出した。私は止めた。何時出産か分らない身体だった。もう予定の日を二週間もすぎている身体だった。俥なんかに揺られるのが一番危険だった。
「近いからゆっくり歩いてゆくわ。」と芳子は云った。
 私も遂に同意した。二人で家を出た。曇った晩だった。
「私もう覚悟しています。初っからいけないというような気が今度はしたんですから。」
 芳子は妙に鋭い直覚を持っていた。よく種々なことを前以て云い当てることがあった。
「なに大丈夫だ!」と私は云った。「いけなかったら僕等の意志で癒してみせる。」
 私達はじっと眼を据えて歩いた。
「大丈夫かい。」
「ええ。本当に思い込むと身体なんか案外どうにでもなるものですね。」
 病院について、病室にはいると、室の中にはS子さんと附添看護婦とが黙って坐っていた。
 私が居ない間にU氏が帰られて診察があったそうである。それから腸の洗滌が一回。嘔吐があるので、薬も一切与えられなかった。ただ時々食塩水を少しずつ唇へ垂らしてやった。堯は半ば無意識にそれを呑み込んだ。
 その晩は私と芳子とがついてることにした。男は病院に泊ることを許さない規定だったが特別に許された。
 S子さんは帰ったが。そして後で、常蒲団や襁褓《おむつ》を届けて来た。看護婦の蒲団は病院で借りることにした。
 八時半すぎにU氏がまた見舞って来られた。
「疫痢ではありませんでしょうか。」と私は聞いた。
「いや疫痢は三四歳以下の幼児には殆んどありません。激烈な消化不良ですね。長い消化不良の後には恢復期によく急激なのが襲うことがあります。」
「意識は殆んどないようですが。」
「そうですね。中毒症状を呈したのです。中毒と云っても、食物やなんかの中毒ではありません。病毒が脳を侵したんですね。」
 私はもうそれ以上何も聞く必要が無かった。その上看護婦に向って、便は兎も角も[#「兎も角も」は底本では「免も角も」]消毒するようにとU氏が云われた言葉が、私達の耳にも留った。
 然し私達は落ち附いていた。そしてただU氏に頼るの外はなかった。外国人を思わせるようなU氏の風貌と、その大きい体躯と、その穏かな言葉と、世に定評のあるその手腕とは、私達をして十分信頼せしむるに足りた。
「S君の御友人だそうですね。」とU氏は云われた。「S君の子供も最近肺炎で入院していました。」
 私達は力強くなった。そしてS氏が横浜に行っていて不在なのがただ遺憾だった。
 私達は堯の手首を取ってみたり、その顔を覗き込んだりした。堯はぼんやり眼を見開いていた。両眼はもう寄っていなかった。然し何にもよく見えないらしかった。私達はその側で、どうすることも出来ない締めつけられたような自分達の心を見出した。時間がただ過ぎて行った。
 その晩十二時近くに看護婦は容態表を記入した。――熱八度二分。脈搏百二十、呼吸四十二。嘔吐八回、尿二回、便通二回、腸洗一回。
 三時頃から看護婦を寝かした。彼女は堯の左に寝た。私は堯の右に寝た。芳子が枕頭で起きていた。然し私は眠れなかった。芳子と代ったが、芳子も眠れなかった。病室の中はむし暑かった。
 そしてそのまま夜が明けた。看護婦は堯の顔にガーゼの切れをかけて室を一通り掃除した。掃除を終ると窓の上の方を少し開いたままにした。其処から曇った朝の凉しい明るみが室に流れ込んだ。然し私達にとっては、その昼も直接に夜から続いた昼であった。凡てがただ明るくなり、電燈の光りが雲を透してくる太陽の明るみに代ったのみであった。堯は無意識の眼をぼんやり見開いていた。苦痛もなければ喜悦もなかった。時々唇を動かした。その度に食塩水をやった。口元を動かしてそれを飲み込むのが、見ている私にはたまらなく嬉しかった。
 凡てが澱んだままの重苦しいそして静かな一日が続いた。過去のことが直接に未来に向って蘇っていった。――堯は独楽《こま》が好きだった。私は家でよくそれを廻してやった。よくなったら病院の室にそれを持って来ようと私は思った。――外に出かける時はいつも堯は後を追った。誰か着物を着更えると必ず外出するものと思っているらしかった。そして鴨居の釘に懸っている自分の外出着のちゃんちゃん[#「ちゃんちゃん」に傍点]を指した。外に出る時はいつもそれを着るのだった。病室にもそのちゃんちゃん[#「ちゃんちゃん」に傍点]を懸けて置いてやろうと私は思った。――私の家の二階の窓からは墓地の一隅が見えていた。窓際に立たせて、「ののちゃん。」と云うと、堯は小さな両手を合した。後には、何とも云わなくても、墓所の石塔の方を見て両手を合した。病室の窓際も堯がつかまって立つのに丁度よい位の高さだった。窓からは墓地は見えなかった。その代りに、月のある晩は、月が見えるだろう、月の無い晩は、月の代りに向うの円い燈が明るく点るだろう、と私は思った。
 然しそういう過去と未来との間に、大きな空虚がぽかりと穴を開いていた。其処に堯は意識を失ってじっと横わっていた。私は眼を閉じてその枕頭に坐っていた。坐っているのがつらくなって、長く寝そべって、両手に頭を抱えた。
 朝、医員が見舞って来た。九時すぎにU氏の診察があった。
「嘔吐は?」とU氏は看護婦に聞いた。
「夜中から後は一回もありません。」
 U氏はじっと患者の顔を見ていた。私は何とももう尋ねなかった。
 十時頃から、二時間置きに人乳を五|瓦《グラム》ずつ与えることになった。乳は女医の人のを搾るのであった。それと共に薬もその前後に与えられた。間々には食塩水も与えられた。堯は、口中に水液がたまると、口を動かしてよくそれを飲み込んだ。
 S子さんは種々なものを届けて来た。十一時頃、芳子の父のA氏が見舞って来られた。使をやって入院証書の調印を頼んだので堯の病気を知られたのである。間もなく芳子の産婆のIさんが見舞に来た。A氏の家から聞いてである。Iさんは堯をも取り上げた人だった。心配そうに堯の顔を覗き込んで首を傾げた。それから芳子の身体のことも心配している眼付をして居たが、それは何とも云わなかった。
「あなた暫く家で寝んでいらしたら。」と芳子は云った。
「お前こそ眠ったがいいよ。此処で眠ってごらん。」
 然しそれは殆んど出来ないことだった。家に帰るにも芳子はその身体では危険だった。で晩になって芳子は眠ることにして、私は少し身体を休めに家に帰った。
 常が一人で何か用をしていた。私は座敷の方に蒲団を敷かして寝た。眠れなかった。眼を開いていると、柱にはった白紙で包んだ禁厭《まじない》の札《ふだ》が眼についた。
 前月の十四日に私達はその家に引越して来たのであった。それまでのH町の家は日当りの悪い陰気な家だったが、此度のS町の家は、日当りのいいぱっと明るい二階家だった。殆んど全快した堯は、次第に丈夫になっていったのである。「此度の家は子供にいい家だ。」と私達は云った。然し、方向が悪かないかと後から親戚の人々が云い出した。第一に引越した方向が鬼門に当りはしないか。第二に、上《かみ》の便所はいいが、下《しも》の便所が家の鬼門に当りはしないか。A氏は昔の大きい円い磁石を持って来られた。よく調べてみると、第一第二とも、鬼門より大分北に外れていた。それでもというので、R叔父は、鎮宅霊符という禁厭の札を作って持って来て下すった。それを私は座敷の柱に貼りつけた。
 私は九星とか易占とかを信じなかった。凡ては自分の意志であると信じていた。もし本当に超自然の理法があるならば、それに自分の意志を以てうち勝ってみせる、と私は云っていた。
「それであなたはいいでしょうけれど、他《ほか》の者にはそれだけの強い力が無くて倒れることがあるかも知れませんもの。」そう芳子は云った。長い間種々な不幸のために、勝気な彼女も大分弱々しくなっていた。
「なに家の者は皆僕の意力で保護してみせる。」と私は答えた。
 然し私は本当にその力を持っているか?
 私はそんなことを考えて眠れなかった。起き上って家の中を歩き廻った。それから私は二階に上って、三畳の方の戸棚を開いた。去年の今月十一日に死んで漸く一週忌が終ったばかりの父の新らしい位牌があった。私はその前に蝋燭と線香とをつけた。そうするのは私のその時の心に如何にも自然だった。堯もよくその前に手を合したことがあった。
 仏壇の下に小さな箱があった。私はそれを開いてみた。小さい草履や鬼子母神の像などがはいっていた。
 私の家は、故郷の田舎の家は、代々子供が育たなかった。家の後を継いだのは皆養子であった。私の祖父もそうであった。祖父には数人の児があったが、その後を継いだ私の父は、やはり祖父の子ではなかった。事情あって祖母の腹に出来た子だった。それを私の母は心配して居た。そして堯が長く病気で居ることをひどく気にして、かねて信心の鬼子母神様にお詣りをするように私にくれぐれも云って来た。それで芳子は堯をつれて雑司ヶ谷の鬼子母神にお詣りをした。小さな草履を貰って来た。向う二年間鬼子母神の御側に奉仕する児となったのである。毎月一回参詣をしなければならなかった。
 私はその小さな草履を見ていると、涙ぐましい感情をそそられた。二階から下りて来てまた蒲団の中にはいった。「今年は本命だから何をしても悪い。ただじっと動かないでいなければならない。」夏に国に帰った時母から云われた言葉が思い出せた。
 目に見えない種々な超自然的な悪いことが私のまわりに立ち罩めた。「俺は凡てを征服してみせる。」と私は自分に云った。然し人が云うように、幾重にも重った私の厄を堯がもし荷っているとしたら……。「自分の力で堯を保護してみせる。堯は自分のものだ!」そう云ったが、私の心は妙に慴えていた。余りに突然な病気だった。「初めからいけないという気がした……」と芳子は云ったのだった。
 重苦しい気分のうちに、私は一時間ばかりうとうとした。眼を開くとじっとして居れなかった。私はすぐに家を飛び出した。室の鴨居に懸っている堯のちゃんちゃん[#「ちゃんちゃん」に傍点]が私の眼の底に残った。
 私は暫く外を歩き廻ってみたかった。然し何時の間にか、私はすぐに病院の前に来てしまった。堯は同じようにじっと寝ていた。
「大丈夫かい。」と
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