つも呼んだ言葉だった。それから私はまた暫くして、「堯、堯!」と心の中でくり返した。私の心の中で、堯が遠くへ遠くへ私から離れてゆくような気がした。私は堯の手をじっと握っていた。もう私のうちには、希望も絶望も無かった。身体の内部がじりじりと汗ばんで来た。
附添看護婦が立ってゆくと、医員と看護婦長とがはいって来た。
「もう最期です。」と医員は云った。
私には分らなかった。唇をかみしめた。
暫くすると、喘ぐような堯の息が一つ長く引いた。とぷつりと呼吸が止ってしまった。じっと見ていると、軽く胸の中でぐぐーという妙な搾るような音がかすかにした。
水のはいった小さいコップに筆が添えて持って来られた。私はそれで堯の唇を。濡してやった。
「お気の毒様で……。」と看護婦が云った。
S子さんが声を立てて泣いた。
云い知れぬものが胸の底からこみ上げて来た。私ははらはらと涙を落した。私はどんなに堯を愛していたことか。そしてどんなに愛し方が足りなかったことか!
その後のことを私は殆んど何にも知らなかった。室の中には、私とS子さんと附添看護婦とだけが残った。堯の顔には白い布が被せられていた。じっと見て
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