少し寄っていた。――芳子はそういう病人の眼を見たことがあったんだそうである。昨年の夏私が国へ帰って後、妹の病気がひどくなった時、芳子は彼女の眼が寄っているのを見た。「Yちゃんあなたの眼は変ね、大変寄っているわよ。」と云うと、妹は答えた。「そうお、何だかあたし、物が二つに見えて煩くて仕様がないのよ。」その後間もなく妹は死んだ。そう芳子は私に後で話した。
一時すぎであった。堯は両手を少し震わした、と同時に、両眼が少しぐるりと廻転した。そしてまた後は静かになった。十分ばかりすると、また同じような事が起った。「痙攣だ!」そういう考えが私の頭に電光のように閃いた。もうどうにも出来なかった。その軽微な痙攣は頻繁に襲って来た。私達はじっと堯の小さな手を握ってやっていた。顔を近寄せたり遠ざけたりしたが、もう視力も非常に衰えているらしかった。が時々微笑んだ。
S子さんが帰って来た。私達はほっとした。――先ずU病院へ行った。氏は往診中で七時頃でなければ帰られないそうだった。ですぐに大学の研究所のS氏の所へ行った。丁度横浜へ行かれて不在中だった。それでまたU病院へ帰って来て、副院長をと頼んだ。丁度同病院には、大学の研究所へ通っていて日曜毎に出て来られるTという小児科出の医学士の人が居た。病院から大学へ電話をかけてくれた。すぐに行くというT氏の答えだった。
私達はT氏を待った。
二時すぎには、堯はもう殆んど意識を失ったように見えた。何を云っても、何を見せても、ぼんやりしていた。軽微な痙攣がやはり時々襲った。
何時の間にそんな急な変化が起ったのか。ただじっと静かに苦しみもしないで寝ているうちに、堯の体内ではどんな戦が戦われたか。「坊や、坊や、どうしたの。」そう芳子は顔を寄せて云った。
T氏の来るのが待ち遠しかった。S子さんは自分の俥を病院に残して来たというから間違いはなかろうけれど、それでも苛ら苛らしてきた。念のため病院に自働電話をかけさしに常をやった。
常と入れ違いにT氏が来られた。すぐに一通り病状を聞いてから、T氏は診察をした。「ひどく急激に来ましたな。兎に角[#「兎に角」は底本では「免に角」]至急病院で手当をなすったが宜しいでしょう。」と云われた。
「脳は大丈夫でございましょうか。馬鹿になるようなことは……。」と芳子は云った。
「ええ脳の方は御心配はいりません。」とT氏は答えた。
T氏と私達との話で、T氏はS氏と大学の同じ研究所で研究せられている友人であることが分った。大変都合がよかった。U病院の方は万事T氏に頼んだ。氏はカンフルを堯の右腕に注射して先に帰られた。
大急ぎで間に合せの仕度をした。私は堯を毛布にくるみなおねんねこ[#「ねんねこ」に傍点]にくるんで、胸に抱いて車に乗った。堯は半睡の状態に居た。車の中で一度軽い痙攣が来た。私は、幌の中の狭い天地に眼を伏せて、堯の額に唇をおしあてた。
三時半病院についた。二分ばかり応接室に待たされた。それから病室に案内せられた。中庭に面した二階の六畳の室で、寝台の室でないのが気持よかった。
医員と女医と看護婦長とですっかり堯の手当が為された。胃部には温湿布があてられた。私は医員の人から、今までの堯の病状を悉しく尋ねられた。堯はもう意識を失っていた。――熱六度三分、脈搏百、呼吸三十五。
一先ず凡ての事が済むと、私は初めて落ち附いた。そして力強くなった。「屹度よくなる!」とそう思った。病院には他にも多くの入院患者が居た。廊下を歩き廻っている子供も居た。今日初めて粥を一杯許されて喜んでいる子供も居た。
痙攣は全く起らなかった。然し、その代りに嘔吐が催して来た。白い粘液性の唾液みたいなものが少しずつ口から出た。医者は首を傾げた。食物も飲料も一切与えられなかった、それから薬も。
間もなくS子さんが家から来た。病院に頼んで置いた附添看護婦も来た。
堯は眠っていた。
私は六時頃、S子さんに頼んで、家に帰った。
芳子がじっと坐って、一つ所を見つめるような眼をしていた。
「どうしました。」
「同じようだ。」
「痙攣は?」
「ない。その代り嘔吐があった。」
「沢山?」
「いや唾液みたようなものを少し。」
私達は大急ぎで食事を済した。
芳子も病院に行くと云い出した。私は止めた。何時出産か分らない身体だった。もう予定の日を二週間もすぎている身体だった。俥なんかに揺られるのが一番危険だった。
「近いからゆっくり歩いてゆくわ。」と芳子は云った。
私も遂に同意した。二人で家を出た。曇った晩だった。
「私もう覚悟しています。初っからいけないというような気が今度はしたんですから。」
芳子は妙に鋭い直覚を持っていた。よく種々なことを前以て云い当てることがあった。
「なに大丈夫だ!」と私は云った。「い
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