けなかったら僕等の意志で癒してみせる。」
 私達はじっと眼を据えて歩いた。
「大丈夫かい。」
「ええ。本当に思い込むと身体なんか案外どうにでもなるものですね。」
 病院について、病室にはいると、室の中にはS子さんと附添看護婦とが黙って坐っていた。
 私が居ない間にU氏が帰られて診察があったそうである。それから腸の洗滌が一回。嘔吐があるので、薬も一切与えられなかった。ただ時々食塩水を少しずつ唇へ垂らしてやった。堯は半ば無意識にそれを呑み込んだ。
 その晩は私と芳子とがついてることにした。男は病院に泊ることを許さない規定だったが特別に許された。
 S子さんは帰ったが。そして後で、常蒲団や襁褓《おむつ》を届けて来た。看護婦の蒲団は病院で借りることにした。
 八時半すぎにU氏がまた見舞って来られた。
「疫痢ではありませんでしょうか。」と私は聞いた。
「いや疫痢は三四歳以下の幼児には殆んどありません。激烈な消化不良ですね。長い消化不良の後には恢復期によく急激なのが襲うことがあります。」
「意識は殆んどないようですが。」
「そうですね。中毒症状を呈したのです。中毒と云っても、食物やなんかの中毒ではありません。病毒が脳を侵したんですね。」
 私はもうそれ以上何も聞く必要が無かった。その上看護婦に向って、便は兎も角も[#「兎も角も」は底本では「免も角も」]消毒するようにとU氏が云われた言葉が、私達の耳にも留った。
 然し私達は落ち附いていた。そしてただU氏に頼るの外はなかった。外国人を思わせるようなU氏の風貌と、その大きい体躯と、その穏かな言葉と、世に定評のあるその手腕とは、私達をして十分信頼せしむるに足りた。
「S君の御友人だそうですね。」とU氏は云われた。「S君の子供も最近肺炎で入院していました。」
 私達は力強くなった。そしてS氏が横浜に行っていて不在なのがただ遺憾だった。
 私達は堯の手首を取ってみたり、その顔を覗き込んだりした。堯はぼんやり眼を見開いていた。両眼はもう寄っていなかった。然し何にもよく見えないらしかった。私達はその側で、どうすることも出来ない締めつけられたような自分達の心を見出した。時間がただ過ぎて行った。
 その晩十二時近くに看護婦は容態表を記入した。――熱八度二分。脈搏百二十、呼吸四十二。嘔吐八回、尿二回、便通二回、腸洗一回。
 三時頃から看護婦を寝かした。彼女は堯の左に寝た。私は堯の右に寝た。芳子が枕頭で起きていた。然し私は眠れなかった。芳子と代ったが、芳子も眠れなかった。病室の中はむし暑かった。
 そしてそのまま夜が明けた。看護婦は堯の顔にガーゼの切れをかけて室を一通り掃除した。掃除を終ると窓の上の方を少し開いたままにした。其処から曇った朝の凉しい明るみが室に流れ込んだ。然し私達にとっては、その昼も直接に夜から続いた昼であった。凡てがただ明るくなり、電燈の光りが雲を透してくる太陽の明るみに代ったのみであった。堯は無意識の眼をぼんやり見開いていた。苦痛もなければ喜悦もなかった。時々唇を動かした。その度に食塩水をやった。口元を動かしてそれを飲み込むのが、見ている私にはたまらなく嬉しかった。
 凡てが澱んだままの重苦しいそして静かな一日が続いた。過去のことが直接に未来に向って蘇っていった。――堯は独楽《こま》が好きだった。私は家でよくそれを廻してやった。よくなったら病院の室にそれを持って来ようと私は思った。――外に出かける時はいつも堯は後を追った。誰か着物を着更えると必ず外出するものと思っているらしかった。そして鴨居の釘に懸っている自分の外出着のちゃんちゃん[#「ちゃんちゃん」に傍点]を指した。外に出る時はいつもそれを着るのだった。病室にもそのちゃんちゃん[#「ちゃんちゃん」に傍点]を懸けて置いてやろうと私は思った。――私の家の二階の窓からは墓地の一隅が見えていた。窓際に立たせて、「ののちゃん。」と云うと、堯は小さな両手を合した。後には、何とも云わなくても、墓所の石塔の方を見て両手を合した。病室の窓際も堯がつかまって立つのに丁度よい位の高さだった。窓からは墓地は見えなかった。その代りに、月のある晩は、月が見えるだろう、月の無い晩は、月の代りに向うの円い燈が明るく点るだろう、と私は思った。
 然しそういう過去と未来との間に、大きな空虚がぽかりと穴を開いていた。其処に堯は意識を失ってじっと横わっていた。私は眼を閉じてその枕頭に坐っていた。坐っているのがつらくなって、長く寝そべって、両手に頭を抱えた。
 朝、医員が見舞って来た。九時すぎにU氏の診察があった。
「嘔吐は?」とU氏は看護婦に聞いた。
「夜中から後は一回もありません。」
 U氏はじっと患者の顔を見ていた。私は何とももう尋ねなかった。
 十時頃から、二時間置きに人
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