乳を五|瓦《グラム》ずつ与えることになった。乳は女医の人のを搾るのであった。それと共に薬もその前後に与えられた。間々には食塩水も与えられた。堯は、口中に水液がたまると、口を動かしてよくそれを飲み込んだ。
S子さんは種々なものを届けて来た。十一時頃、芳子の父のA氏が見舞って来られた。使をやって入院証書の調印を頼んだので堯の病気を知られたのである。間もなく芳子の産婆のIさんが見舞に来た。A氏の家から聞いてである。Iさんは堯をも取り上げた人だった。心配そうに堯の顔を覗き込んで首を傾げた。それから芳子の身体のことも心配している眼付をして居たが、それは何とも云わなかった。
「あなた暫く家で寝んでいらしたら。」と芳子は云った。
「お前こそ眠ったがいいよ。此処で眠ってごらん。」
然しそれは殆んど出来ないことだった。家に帰るにも芳子はその身体では危険だった。で晩になって芳子は眠ることにして、私は少し身体を休めに家に帰った。
常が一人で何か用をしていた。私は座敷の方に蒲団を敷かして寝た。眠れなかった。眼を開いていると、柱にはった白紙で包んだ禁厭《まじない》の札《ふだ》が眼についた。
前月の十四日に私達はその家に引越して来たのであった。それまでのH町の家は日当りの悪い陰気な家だったが、此度のS町の家は、日当りのいいぱっと明るい二階家だった。殆んど全快した堯は、次第に丈夫になっていったのである。「此度の家は子供にいい家だ。」と私達は云った。然し、方向が悪かないかと後から親戚の人々が云い出した。第一に引越した方向が鬼門に当りはしないか。第二に、上《かみ》の便所はいいが、下《しも》の便所が家の鬼門に当りはしないか。A氏は昔の大きい円い磁石を持って来られた。よく調べてみると、第一第二とも、鬼門より大分北に外れていた。それでもというので、R叔父は、鎮宅霊符という禁厭の札を作って持って来て下すった。それを私は座敷の柱に貼りつけた。
私は九星とか易占とかを信じなかった。凡ては自分の意志であると信じていた。もし本当に超自然の理法があるならば、それに自分の意志を以てうち勝ってみせる、と私は云っていた。
「それであなたはいいでしょうけれど、他《ほか》の者にはそれだけの強い力が無くて倒れることがあるかも知れませんもの。」そう芳子は云った。長い間種々な不幸のために、勝気な彼女も大分弱々しくなっていた。
「なに家の者は皆僕の意力で保護してみせる。」と私は答えた。
然し私は本当にその力を持っているか?
私はそんなことを考えて眠れなかった。起き上って家の中を歩き廻った。それから私は二階に上って、三畳の方の戸棚を開いた。去年の今月十一日に死んで漸く一週忌が終ったばかりの父の新らしい位牌があった。私はその前に蝋燭と線香とをつけた。そうするのは私のその時の心に如何にも自然だった。堯もよくその前に手を合したことがあった。
仏壇の下に小さな箱があった。私はそれを開いてみた。小さい草履や鬼子母神の像などがはいっていた。
私の家は、故郷の田舎の家は、代々子供が育たなかった。家の後を継いだのは皆養子であった。私の祖父もそうであった。祖父には数人の児があったが、その後を継いだ私の父は、やはり祖父の子ではなかった。事情あって祖母の腹に出来た子だった。それを私の母は心配して居た。そして堯が長く病気で居ることをひどく気にして、かねて信心の鬼子母神様にお詣りをするように私にくれぐれも云って来た。それで芳子は堯をつれて雑司ヶ谷の鬼子母神にお詣りをした。小さな草履を貰って来た。向う二年間鬼子母神の御側に奉仕する児となったのである。毎月一回参詣をしなければならなかった。
私はその小さな草履を見ていると、涙ぐましい感情をそそられた。二階から下りて来てまた蒲団の中にはいった。「今年は本命だから何をしても悪い。ただじっと動かないでいなければならない。」夏に国に帰った時母から云われた言葉が思い出せた。
目に見えない種々な超自然的な悪いことが私のまわりに立ち罩めた。「俺は凡てを征服してみせる。」と私は自分に云った。然し人が云うように、幾重にも重った私の厄を堯がもし荷っているとしたら……。「自分の力で堯を保護してみせる。堯は自分のものだ!」そう云ったが、私の心は妙に慴えていた。余りに突然な病気だった。「初めからいけないという気がした……」と芳子は云ったのだった。
重苦しい気分のうちに、私は一時間ばかりうとうとした。眼を開くとじっとして居れなかった。私はすぐに家を飛び出した。室の鴨居に懸っている堯のちゃんちゃん[#「ちゃんちゃん」に傍点]が私の眼の底に残った。
私は暫く外を歩き廻ってみたかった。然し何時の間にか、私はすぐに病院の前に来てしまった。堯は同じようにじっと寝ていた。
「大丈夫かい。」と
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