私は云った。
「え?」と芳子は顔を上げた。私の問いが、危篤の状態に居る堯に向って為されたのか、または生れようとする腹の児に向って為されたのか、彼女は惑ったのである。
「お前の方は?」
「ええ。」と云って芳子は初めて軽く微笑んだ。
 夕方から、堯には人乳十瓦ずつ与えられるようになった。U氏が一番心配している嘔吐は全く無くなかった。
 そうしてたとえ十瓦の人乳でも落ち附いてゆけば非常な幸いであった。夕方、食塩水の腸注入をやったが、殆んど吸収せられずに出てしまった。熱も脈搏も呼吸も増してゆくばかりであった。頭にはたえず氷嚢があてられた。額をも水で冷した。然し額の方は時々しか冷せなかった。少し続けてやればすぐにチアノーゼを起しそうだった。否既に軽微なチアノーゼは起していた。夜になると、額を冷しているとすぐに頬のあたりまで冷たくなって、色が変りそうだった。
 脈が時々結滞するようになった。カンフルの注射が行われた。十瓦の人乳を飲むのに、長くかかるようになった。それがすむと非常に疲れるらしかった。
 夜U氏の回診の時、私は云った。
「脳は大丈夫でしょうか。よくなっても馬鹿になるようなことはないでしょうか。」
「ええ大丈夫です。脳膜炎を起したのではありませんから。」
 私は、U氏からじっと見つめられて恥しくなった。もうそんなことを云ってる場合ではなかったのだ。然し……。
 初めて入院前にT氏が見舞われた時、芳子が第一に聞いたのもそれだった。どうせ頭が馬鹿になるなら、苦痛なく死なしてやりたいと私達は思っていた。然し今ではその思いも何処へ行ったのか?
「ただ生命が助かれば!」と私は思った。
 私と芳子とは、じっと眼を見合った。何とも云わないでじっと互の眼の中を見合った。
 けれども、食堂で夕食を食べている時、私達はこんなことを囁いた。
「まずいね。」
「ほんとにどうしてこうまずいんでしょう。ちっとも食べられはしませんわ。」
「勿論安いんだからね。」
「なんにも無くても家でたべた方がよござんすわね。」
「家」という一語が私達をすぐに黙らしてしまった。
 夜になって芳子は腹の工合が少し変だと云い出した。すぐ帰るように私は云った。
「まだはっきり分らないから、も少し様子を見てみますわ。」と芳子は云った。
 雨が降り出した。雨の音が病院の中を一層しいんとさした。
 堯は、嚥下作用も次第に衰えて来るようだった。十瓦の人乳を一度に飲めないで中途で止すようになった。口中にたまった液体を嚥下するのが非常な努力らしかった。私達はどうしていいか分らなかった。何にも与えないでは恢復の見込みはないし、与えることは堯にとって苦痛らしかった。それでも、……やはり人乳や食塩水を時々与えなければならなかった。薬はもう一切やらなかった。
 それでも堯の顔には、何等の苦痛の表情もなかった。きまり悪いような微笑みの影さえあった。私はあの顔を思い出した、どうかした調子に芳子の乳首を一寸なめてきまり悪そうに微笑む顔を。堯は最近では、乳房をつきつけてやっても顔を外らして吸おうとはしなかったのである。
 夜遅く、私は看護婦の容態表をじっと眺めた。
 朝――熱八度二分、脈搏百二十八、呼吸四十四、
 午――熱八度四分、脈搏百三十六、呼吸四十二、
 夕――熱九度四分、脈搏百三十四、呼吸五十二、
 夜――熱九度二分、脈搏百四十、呼吸四十五、
 尿二回、便五回、嘔気二回、カンフル注射二回、腸注入一回、人乳五瓦三回、十瓦三回。
 私は其処に敷いてある蒲団の上に身を投げ出した。そして何にも考えまいとした。それは卑怯な態度ではなかった。そして私はうとうとした。
 ふと眼を開くと、芳子は小さな机にもたれてじっと坐っていた。極度に緊張した表情をしていた。
「いけないのか。」
「ええ、そうらしいわ。」
 芳子は便所に行った。
「やはりそうらしいわ。」
「ではすぐに帰るがいいよ。」
「ええ。」そして芳子は室の隅をじっと見つめた。
 寝て居た看護婦を私は起した。
 看護婦は起きて行って、電話室へはいった。私も後からついて行った。もう一時になっていた。俥屋は中々起きなかった。それでも漸く起き上った。至急俥を二台頼んだ。
 芳子は既に軽い陣痛を覚えていた。堯の額に唇をつけた。堯は眠っているらしかった。或は覚めて居たのかも知れない。
 私は芳子の腕を取った。寝静まった病院の階段を私達は一段々々と下りた。看護婦が玄関の扉を開いてくれた。私は彼女をすぐに病室の方へ返した。
 雨は霽れていた。外は真暗な闇が深く澄み切っていた。玄関に私の腕にもたれて立ちながら、芳子は私の手を緊と握りしめた。
「坊やのことをね、坊やのことをね、お頼みしますよ。」と芳子は云った。
「ああ大丈夫。」
「しっかと手を握ってやっていて下さい、ね。」
 私
前へ 次へ
全10ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング