つも山羊乳に食麺麭を食べていた。それから食事の間にも、砂糖分の多い菓子は腸にいけなかったので、物を欲しがる時はいつも食麺麭をやっていた。それを堯はいつも大変喜んでたべた。毎日、少し遠かったが品がいいのでA堂から、麺麭を配達して貰っていた。がその日はその麺麭をも手にしなかった。「どうしたんだろう。」と私は芳子と顔を見合った。然し別に堯は泣きもしなかった。ただしきりに眠そうであった。
 間もなくU医師はやって来た。一通り診察がすんだ。腸に大分食物が停滞しているとのことだった。然し別に心配するほどではないとのことだった。長い間ひどい腸の病気に悩んで来た後だったので、そしてそういうことはよくあったので、私は別に驚きもしなかった。
 氷枕で頭を冷やし、また額も冷してやった。四時すぎに一回便通があったが、大して悪い便でもなかった。五時に医者の許から貰って来た薬を与えた。熱をはかると七度六分に下っていた。
「やっぱり何でもなかったようだね。」と私は云った。
「熱が下れば宜しいんですわね。」と芳子は答えた。
 然し私達は何だか心の底で不安だった。妙に堯は睡眠を欲しているらしかった。それでも食事の時にははっきり眼を開いていたので、私は褞袍にくるんでいつものように足座の中に抱いてやった。粥を止して、麺麭をやった。その二片を堯は食べた。それから山羊乳を五勺足らず飲んだ。
 六時すぎに下痢が一回あった。真青な便だった。八時頃また一回下痢した。青い色が妙に濃く黒ずんでいた。そしていつもうとうとと眠っていた。
 私達は悪いと思うとまた急に不安になった。堯については私達は昨年以来たえず腸で脅かされて来た。その上咋年の夏以来私達の近しい身内の者で病死した人が三人もあった。病気や死に対して神経が苛ら苛らしていた。で堯も容態が悪いようだったら、すぐにS医学士かまたはU医学士に診察を願おうと思った。U氏というのは、小児科では秀抜な手腕を有すると定評のある人で、最近小児科専門の病院を建てていた。
 S子さんに、堯の便を持ってすぐにU医師を訪れて貰った。すると、便の色は薬のためである、便通は薬に多少下剤が混じているので少し度数が多くなるかも知れない、然し心配のことはない、という答えだった。で兎に角[#「兎に角」は底本では「免に角」]、もう夜も遅いし、翌朝まで容態を見ることにした。
 十一時頃、堯は物を欲しがった。その日は、朝食に麺麭と山羊乳とを食べ、それから夕方同じくその少量を取ったばかりだった。で芳子は葛湯を作ってやった。そしてその少量を与えた。それから堯は暫くして安らかに眠った。熱も七度三分に下っていた。
 私達は、堯の枕頭で暫く黙っていた。が何だか非常に淋しくなった。昼間M町通りを帰って来る時ふと玩具のことを考えたことを、私は話した。「これで、坊やが病気でもひどくなると、あれが虫が知らしたとでもいうようなことになるんだね。」私はそんなことを云った。「私はまた疫痢にでもなるんではないかと思って……。」と芳子は云った。
 私達は十二時頃床についた。芳子が産期近くなってから堯は私と寝るようになったが、其晩芳子は堯を抱いて寝てやった。
 その夜中に下痢が二回あった。便の色が非常に悪かった。然し朝になっても別に容態が悪いようでもなかった。熱は六度四分だった。「この分ならいい。」と私は思った。
 私は厳格なる公務を帯びている身だった。それでいつものように六時すぎに家を出た。然し絶えず気がかりだった。そして十一時家に帰って来た。
 堯は眠っていた。容態は変っていなかった。十時頃U医師が来て腸の洗滌を一回したそうである。下痢が朝一回と、私が帰って来てから一回あった。然し此度は、便に極めて少量の黒ずんだ赤いようなものが混じていた。食慾は一切なかった。
「これはいけない。」という気がした。堯は前から消化不良がひどい時でも、食慾が少しも無いということは殆んどなかったのが、急にはっと思い出された。私は少し狼狽し出した。私の帰るのを待っていた芳子も急に騒ぎ出した。
 十二時頃になると堯はひどくぼんやりして来た。「嗜眠の状態ではないかしら。」と私は思った。
大急ぎで食事を済したS子さんに至急車を走らして貰った。「U氏かS氏か、二人共居なかったら至急誰かに……。」と私は頼んだ。U医師に無断ではと思ったが、それを断る間も待ち切れなかった。
 私と芳子とは堯の枕頭についていた。堯は欠伸《あくび》をした。
「欠伸をするのはいい方だね。」と私は云った。
「さあどうですか。」と芳子は答えた。
 然しそんなことでもいいと思わざるを得ないほど、私の心は不安になっていた。そしてその不安は本当に形になって現われて来た。
「あなた、眼が変ではありませんか。」と芳子が云った。
 私は堯の眼を覗き込んだ。両の眼球が
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