持ちが私に湧いて来た。然し私は力強くなった。手をしっかり握りしめた。
 私は次の室に来て暫くT君と話した。堯の容態をきいてT君はきっと唇を結んでいた。
「また来るから。」とT君は帰る時に云った。
「ああ。然し大丈夫だ。いけなくても今夜の夜中だろう。いや、あしたの夜明けが危険かも知れない。」と私は云った。
 私はぼんやり室に寝転んで天井を見つめていた。
「あなた!」と芳子が云った。
「何だ?」
「早く病院の方へ。」
「うむ。」
 私はそれでも暫くじっとしていた。そして十一時すぎに家を出かけた。
「今度帰って来る時は、堯を抱いて来るかも知れない、俥だったらそうだから。」
 芳子は首肯いた。
「いいかい。」そう云って私は芳子の眼を覗き込んだ。「分るだろう。」
「ええ。」と芳子はきっぱり答えた。
 私は外に出た。空には薄い雲が流れていた。日の光りが時々陰った。
 堯と生れた児とが一つになって私の上に被さった。一は死であり、一は生であった。二つ共愛だった。その両面がぐるぐる廻転した。私は眼が廻りそうになった。と、突然その二つが遠い所へ飛び去ってしまった。私は妙に訳の分らぬ自分自身を見た。そしてその時、堯の姿が、万灯を持って飛びはねてる堯の姿が、はっきり私の頭に映じた。「よくなる、よくなる。」そう私は心に叫んだ。「なにじっと堪《こら》えてみせる。」そうも叫んだ。
 病院の近くで、私の家の方へやって来るA氏に出逢った。私はただ頭を下げた。病院の入口でT氏に出逢った。T氏はその強度の近眼鏡の下から私に挨拶をした。
「今すぐ私も診察に参ります。」
 私は力強くなった。
 病室にはいると、堯はやはり静に寝ていた。手首を取ると脈が殆んど指先に感じなかった。ふっ……ふっと喘ぐような急速な呼吸をしていた。
 私はじっと唇をかみしめて眼を閉じた。
 十二時すぎに医員と女医とが見舞って来た。
「仕方がありませんね。」と医員は云った。「手首には殆んど脈搏を感じないのですから。」
 カンフル注射が胸に行われた。反応は殆んど見えなかった。暫くして注射の跡を検すると、其処だけ肉がぽつりと高くなって、カンフルは注射されたまま吸収されずに残っていた。
「心臓が弱って来たのです。」
 心臓が弱って来たのは昨日の夕方あたりからであった。なぜヂガーレンの注射を初めにしないかと私は思ったが、それはもう恐らく出来なかったのであろう。
「お知らせなさる所がありましたら……。」
 私はその言葉をその時聞いた。然し私は「いいえ。」と答えた。実は知らすべき親戚や友人が少しあったが、私はその場合に大勢の人が来るのを欲しなかった。出来るなら看護婦やS子さんをも遠ざけたかった。私はただ堯と二人で居たかった。
 看護婦は容態表を記入した。
 朝――熱九度三分、脈搏百三十四、呼吸五十四。
 午――熱九度一分、脈搏百五十四、呼吸五十六。
 便二回、嘔気一回、カンフル三回、滋養腸注一回、人乳十瓦二回。
 もう殆んどどうにも出来なかった。重苦しいそして盲目な時間が過ぎて行った。一瞬の休止もなく或る大きい力で押し進んでいるものの前に、私の叫びや意力が如何に小さかったか。然しそれも凡て私のものではないか。
 T氏も回診して来られた。
「どうも仕方がありませんね。」と云われた。
 一時に、特にU氏が見舞って来られた。私はもう何とも云わなかった。U氏も黙って居られた。私達はただ低くお辞儀をした。
 私は堯の喘ぐような呼吸をじっと見ていた。「坊《ぼん》ちゃん坊《ぼん》ちゃん!」と私は心の中で云った。それは堯が生れて間もない頃私がいつも呼んだ言葉だった。それから私はまた暫くして、「堯、堯!」と心の中でくり返した。私の心の中で、堯が遠くへ遠くへ私から離れてゆくような気がした。私は堯の手をじっと握っていた。もう私のうちには、希望も絶望も無かった。身体の内部がじりじりと汗ばんで来た。
 附添看護婦が立ってゆくと、医員と看護婦長とがはいって来た。
「もう最期です。」と医員は云った。
 私には分らなかった。唇をかみしめた。
 暫くすると、喘ぐような堯の息が一つ長く引いた。とぷつりと呼吸が止ってしまった。じっと見ていると、軽く胸の中でぐぐーという妙な搾るような音がかすかにした。
 水のはいった小さいコップに筆が添えて持って来られた。私はそれで堯の唇を。濡してやった。
「お気の毒様で……。」と看護婦が云った。
 S子さんが声を立てて泣いた。
 云い知れぬものが胸の底からこみ上げて来た。私ははらはらと涙を落した。私はどんなに堯を愛していたことか。そしてどんなに愛し方が足りなかったことか!
 その後のことを私は殆んど何にも知らなかった。室の中には、私とS子さんと附添看護婦とだけが残った。堯の顔には白い布が被せられていた。じっと見て
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