いると、まだ呼吸をしているように、蒲団の襟が動いて見えた。白布を取ってみると、堯は眼を少し開いていた。笑顔をしていた。額はまだ暖かかった。看護婦は眼瞼を揉んで、眼をつぶらせようとした。どうしても眼は少し開いたままで居た。「それの方がいい。」と私は云った。白布がまた被せられた。穏かな黒目がちな眼を少し見開いて微笑んでいる顔が、まざまざと私の脳裡に刻み込まれた。
 私達はそのまま坐っていた。S子さんはいつまでもハンケチを顔に押し当てていた。私はじっと堪えた。
 その時、Y君が見舞に来てくれた。玄関に出ると、私は急に顔全体が痙攣して、口が利けなかった。Y君は、堯と芳子とを思い違えていた。私は漸々、堯のこと、いけなかったことを云った。そして玄関で帰って貰った。
 埋葬認許書のことで、区役所と警察署とへ行かなければならなかった。私は使をやろうかと思ったが自分で行くことにした。「大正六年十月二十一日午後一時四十五分死亡、重症消化不良症」という死亡診断書を私は医局から貰った。
 俥屋が来た。知っている主人も来た。主人に死去の通知のため親戚へ走って貰った。そして私は、若い衆の俥に乗って、区役所と警察署とへ行って、埋葬認許書を貰って来た。埋葬地は故郷の、去年父が埋った墓地にした。
 帰って来ると、堯の身体は看護婦がすっかり清めて置いてくれた。S子さんは荷物をまとめてしまってその側についていた。私は医員と看護婦長とに挨拶に行った。階下《した》の応接室に丁度U氏が居られた。
「お気の毒なことでした。」と云われた。
「種々あり難う存じました。」
 私は丁寧に頭を下げた。
 俥屋が来たと通知があった。私は堯を胸に抱いた。堯はそのまま小さい両手を胸に組んでいた。
 俥は裏門の方に廻されて居た。私は一番先の俥に乗って幌を下した。次の俥に荷物がのせられた。終りのにS子さんが乗った。そして私達は裏門から出た。
 堯が死んだとは、私にはどうしても思えなかった。顔の白布を取ると、眼を少し開いて微笑んでいた。私は胸に抱きしめて、その顔に唇をつけた。冷たかった。底の知れない冷たさだった。私はその冷たさを自分の口に吸い取るように、じっと唇を押し当てた。私の全身に、冷たい戦慄が伝わった。そして私は、はっと或る恐れを感じた、或る聖なる恐れを。私はまた、堯の顔に白布を被せてやった。自分の胸の中の肉を掴み去られた感じがした。
 そしてそれが極度に聖《せい》であった。私は眼を瞑った。
 家に着くと、私は堯を抱いたまま芳子の室に通った。赤ん坊の顔に私は一番に眼を落した。
 私は全身に震えながら芳子の眼と見合した。芳子の緊張した視線が私の胸を刺した。
「何時に?」と芳子は云った。
「一時四十五分!」と私は答えた。
 私は堯を芳子の所へ抱いて行ってやった。芳子は寝ながら、堯を抱き取った。顔の白布を取ってじっとその顔を見た。微笑んだ生きた顔が其処にあった。それから、胸に組み合した小さな両手を見た時、芳子は急に堯を抱せしめた。歯をくいしばって涙をはらはらと流した。
「坊や、坊や!」と芳子は云った。「なぜお母さんが居るうちに死ななかったの! 坊や、坊や!」
 私はその側に坐って、芳子の肩を捉えた。そしてその涙にぬれた顔を私の方へ向けさした。私はその眼の中を覗き込んだ。
「堯は僕達の所へ帰って来たんだ!」と私は云った。
 芳子は首肯いた。
 私は堯をまた抱き取った。
 A氏やR叔父などがやって来た。私は皆を次の室へ通さして、間の唐紙をしめた。常に蒲団を敷かした。そして堯を抱いたまま私はその蒲団の中にはいった。赤ん坊は室の真中に小さな蒲団を敷いて眠っていた。その向うに芳子は寝たまま顔を枕に押しあてた。
 私は堯を抱きしめた。その冷たい額にまた唇を押しあてた。怪しい底深い所から来る戦慄が私の全身に伝わった。
 暫くして私は、そっと堯を寝かしたまま起き上った。芳子が私の方をじっと見守っていた。そして私達は涙の乾いた緊張した眼を見合った。



底本:「豊島与志雄著作集 第一巻(小説1[#「1」はローマ数字、1−13−21])」未来社
   1967(昭和42)年6月20日第1刷発行
初出:「帝国文学」
   1918(大正7)年1月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:松永正敏
2008年10月14日作成
青空文庫作成ファイル:
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