、強く強く抱きしめてやりたくなった。堯全部は、その全部が、私のもの[#「もの」に傍点]だった。自分のものだった。意識も何もなくてもいい。苦しみも、喜びも、堯は私の胸の中に融け込んでくる。何か大きいものが私を堯の方にぐいぐいと引きずってゆく。……私はその力にじっと唇をかみしめて抵抗していた。眼がくらみそうであった。と、突然何かがぷつりと切れた。私は白痴のようにぼかんとして、じっと堯を見つめていた、その呼吸を。そして独りでに、私の呼吸は堯の早い呼吸と調子を合していた。どうすることも出来なかった。私は堪らなくなった。其処に身を投げ出して頭をかき※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]った。
 そういう心の発作が過ぎ去ると、私は深く大きく落ち附いて静まり返っている自分の心を見出した。私は氷嚢に触ってみたり、堯の手首の脈を見てみたりした。
 四時頃だったか、急に堯の呼吸の数が多くなったように思えて来た。数を計ってみると五十七あった。不安になって来た。私は眼を閉じて自分の生命を堯の身に注ぎ込もうとした。
 夜がいつのまにか明けた。
 看護婦は室の掃除をした。私はまずい食堂の飯を食った。朝医員がやって来て、カンフルを注射した。腸に滋養注入をしたが、殆んど吸収しなかった。
 八時頃、Iさんが見舞ってくれた。私はその顔を見て、ほっと安心した。凡てが分った。
「御安産でございました。今朝の三時半に、女のお児さんで。お二人共御丈夫でございます。」
 Iさんの声は低かった。ああ、なぜ声を低める必要があろう。然し私も声が低かった。
「お影で、あり難うございました。」
 Iさんは、容態表をじっと見て、それから堯の顔を覗き込んだ。
「取ってお上げ申したら。」そう云ってIさんは堯の両眼のガーゼを取ってくれた。私はなぜかそれが嬉しくて涙が出て来た。
「坊《ぼっ》ちゃん、坊ちゃん、お見えになりますか。」Iさんは顔を近よせたり遠ざけたりした。堯はもう何も見えないらしかった。暫くしてIさんは帰って行った。
 ややあって、A氏が見舞って来られた。S子さんがまた間もなく来た。
「御診察がすんだら、一寸帰って来て下さるようにとのことでした。」とS子さんは芳子からの言葉を私に伝えた。
 九時にU氏の回診があった。私はもう何にも聞かなかった。診察が終ると私は帰るつもりで廊下に出た。
「お分りでもありましょうが、あの通りの容態ですから、どうにも仕方がありませんね。今晩あたり危険かも知れません。午後からはついていられた方がいいでしょう。」
 私は少しも驚かなかった。そういう言葉も私の心の中に何の響きをも立てなかった。私はただ感謝の頭を下げた。
 私は駆けるようにして家に帰った。T君が来ていてくれた。
 私はすぐに八畳の座敷の方へはいった。芳子が寝たままじっと私の顔を見つめた。私は芳子の側の小さな蒲団の中を覗いてみた。と、私ははっとした。堯とそっくりの赤ん坊の顔が其処に在った。すやすや眠っていた。
 私は芳子の枕頭に坐った。蒲団の外に差出した芳子の手を私は強く握った。力強い何とも云いようの無い涙が出て来た。
 私達は暫く黙っていた。
「どうだった。苦しかった?」と私は云った。
「ええ。それでも陣痛が激しい代りに時間は早かったのです。三時半に。私はSさんの手をじっと握っていました。」
 堯の時は芳子は私の手を握っていた。
 暫くすると芳子が云った。
「如何でした?」
「同じようで別に変りは無い。」
 暫くすると芳子はまた云った。
「いけなかったのではありませんか。」
 私はじっと芳子の眼を見守った。精神が張り切ったような朗らかな澄み切った眼だった。
 暫くして私は云った。
「まだ大丈夫だ。然し覚悟はしていなければならない。」
 芳子は首肯いた。
「帰る時に、Uさんの言葉では、今晩あたりがむずかしいということだった。」
 芳子はまた首肯いた。
「いいかい。本当にしっかりしていなければならない時が来たんだ。どんなことがやって来てもじっとして居れるだけの心は養っておかなければならないと、僕がいつも云っていたのは此処のことだ。私達の出発が既に初めっから生命がけですからとお前はよく云って居たろう。あの気持ちをはっきり握っていなくちゃいけない。特にお前は今大事な身体だ。神経過敏にはなっていても、精神感動を起してはいけないんだ。いいかい、分るだろう。」
 声は低かったが、私の言葉は怒鳴りつけるようだった。芳子は黙って首肯いた。暫くして私はまた赤ん坊の顔を覗き込んだ。指先でその頬に触ってみた。絹のように柔かだった。
 芳子は、何とも云えない引き締った笑顔をした。私はその時ふと日数をくってみた。堯の誕生日は一月十一日だった。丁度その日から今日まで二百八十日余りになっていた。吉とも凶ともつかない気
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