達の心に堯の死の場面がはっきりと映じた。
 俥はまだ来なかった。私は外に出てみた。薄暗い寝静まった通りを透して見ると、向うに俥屋の提灯の火が見えた。
「来ましたか。」
「ああ今すぐ。」
 芳子は又私の手につかまった。
「坊やのことをね。堯をね。」
 私は返事の代りに、彼女を緊と抱いてやった。
 すぐに俥屋が来た。「S町まで、」と私は云って芳子を連れ出した。
 俥屋の一人は私達の姿をじっと透し見た。
「おや、奥様でございましたか。」
「あ、Yさんですか。」
 一人は私達をかねて知ってる俥屋の主人Yであった。彼は、私達の親戚の家や産婆のIさんの家も知っていた。好都合だった。でその主人に産婆の家へ行って貰うことにした。芳子は若い衆の方の俥に乗った。そして黙って私の前に頭を下げた。
 私は外に立って、右と左とへ別れて馳せ去ってゆく二台の俥を見送った。それから玄関の扉をしめた。病室に帰ると看護婦に玄関の締りをして来て貰った。
 私は一人で堯の枕頭に坐った。それからじっと眼をつぶった。
 芳子の方のことは心配はなかった。前からすっかりは仕度調っていた。家にはS子さんと常とが居た。Iさんもいつも私の家から呼びに行くのを待っていてくれた。丁度さし迫った用向も他に無いそうであった。それから、産が予定よりも二十日近くも後れていたが、心配なことはないとIさんは云った。Iさんはしっかりした手腕と頭とを持っていた。また難産の時には、すぐにS病院の院長に来て貰うように前から話がしてあった。
 それでも私の心は家の方へ飛んで行った。そして私は頭でじっと堯を見ていた。それが自分乍ら痛々しかった。「なんだこれ位のことに!」と私は云った。そして堯の額に唇をつけた。涙が初めて湧いて来た。涙と共に私は力強くなった。「芳子は自分の半分じゃないか。自分自身の半分のことを心配することはない。」私はそう自ら云った。芳子の悲痛な心と陣痛の苦しみとが、私自身に返って来た。そして私は自分の全部でじっと堯の枕頭に坐っていることが出来た。
 私は無理にすすめて看護婦を寝かした。
 夜は静かで何の物音もしなかった。時間がぴたりと止ったようであった。じっと眼を瞑っていると、堯の全部が私の前に見えて来た。
 私は堯の頭に未来を期待していた。――生れた時から堯は母親の乳房でなければ、護謨の乳首に決して吸いつかなかった。――玩具に対
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