て来るようだった。十瓦の人乳を一度に飲めないで中途で止すようになった。口中にたまった液体を嚥下するのが非常な努力らしかった。私達はどうしていいか分らなかった。何にも与えないでは恢復の見込みはないし、与えることは堯にとって苦痛らしかった。それでも、……やはり人乳や食塩水を時々与えなければならなかった。薬はもう一切やらなかった。
 それでも堯の顔には、何等の苦痛の表情もなかった。きまり悪いような微笑みの影さえあった。私はあの顔を思い出した、どうかした調子に芳子の乳首を一寸なめてきまり悪そうに微笑む顔を。堯は最近では、乳房をつきつけてやっても顔を外らして吸おうとはしなかったのである。
 夜遅く、私は看護婦の容態表をじっと眺めた。
 朝――熱八度二分、脈搏百二十八、呼吸四十四、
 午――熱八度四分、脈搏百三十六、呼吸四十二、
 夕――熱九度四分、脈搏百三十四、呼吸五十二、
 夜――熱九度二分、脈搏百四十、呼吸四十五、
 尿二回、便五回、嘔気二回、カンフル注射二回、腸注入一回、人乳五瓦三回、十瓦三回。
 私は其処に敷いてある蒲団の上に身を投げ出した。そして何にも考えまいとした。それは卑怯な態度ではなかった。そして私はうとうとした。
 ふと眼を開くと、芳子は小さな机にもたれてじっと坐っていた。極度に緊張した表情をしていた。
「いけないのか。」
「ええ、そうらしいわ。」
 芳子は便所に行った。
「やはりそうらしいわ。」
「ではすぐに帰るがいいよ。」
「ええ。」そして芳子は室の隅をじっと見つめた。
 寝て居た看護婦を私は起した。
 看護婦は起きて行って、電話室へはいった。私も後からついて行った。もう一時になっていた。俥屋は中々起きなかった。それでも漸く起き上った。至急俥を二台頼んだ。
 芳子は既に軽い陣痛を覚えていた。堯の額に唇をつけた。堯は眠っているらしかった。或は覚めて居たのかも知れない。
 私は芳子の腕を取った。寝静まった病院の階段を私達は一段々々と下りた。看護婦が玄関の扉を開いてくれた。私は彼女をすぐに病室の方へ返した。
 雨は霽れていた。外は真暗な闇が深く澄み切っていた。玄関に私の腕にもたれて立ちながら、芳子は私の手を緊と握りしめた。
「坊やのことをね、坊やのことをね、お頼みしますよ。」と芳子は云った。
「ああ大丈夫。」
「しっかと手を握ってやっていて下さい、ね。」
 私
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