の室《へや》があった。二人《ふたり》は火の気《け》の無いそのうす寒い室の入口に身を屈めた。片隅には看護婦の着物や持ち物が置いてあった。
「病人が非常に耳が近いものですから。」と羽島さんは云い訳のように云った。
「そうでしょう。そして何か御用ですか。」
「用というほどのことではありませんが、あなたに少し伺ってみようと思っていたことがありますので。」
 羽島さんの云う所は斯うであった――
 医者の薬は少しもその効が見えない。咳に苦しむ時、熱に苦しむ時、不眠に悩む時、その度毎に医者にもそう云うけれど、彼は少しもその方の薬を盛らないらしい。病人のそういう悩みが静まるのはただ自然に衰弱しきってゆく結果らしく思わるる。何時も同じような薬が病人の枕頭には並んでいる。嘗《な》めて見るとどうも胃腸の薬らしい。それに医者は毎度病人の便を取らしてはそれを検査するために届けさせる。どうも腹部に故障があるらしく思われてならない。病人の腹部に触《さわ》って見ると、食物が僅かしか通らないのにいつも脹《ふく》れている。もし果して腹部に大きな疾患があるとすれば、今の呼吸器科の医者よりも誰か胃腸専門の医者に診《み》さしたらどうであろう。勿論立会診察は余り益《やく》に立たないと聞いてもいるし、費用の点も大いに違うだろうから、どうかして医者を取り換える法はあるまいか。「それも勿論ただ私の推察だけに止まるんですが、果して腹部に重い病があるとすると心配ですから一応御相談してみたいと思ったのです。」
 重苦《おもくる》しい圧迫が壮助の頭に上ってきた。もし果して羽島さんの推察の如く腹部に重い疾患があるとすれば、既に肺を結核に冒されている身体は到底助かる見込みはあるまい。それともまた彼自身も恐れていた如く……腸に結核が生じたとするならば、結果は猶更困難であろう。何れにしても運命はじりじりと光子の上に迫って来つつある。
「如何でしょうかな。」と羽島さんは黙って考え込んでいる壮助の上にまた言葉を投げた。
 長く看護に疲れた羽島さんの心には、一寸した考えの向け方が直ちに凶なる予想を事実として決定せしめるだけの切端《せっぱ》つまったものがあった。そしてその考えが壮助にもすぐに感染してきた。
「兎に角私が医者によく聞いてみましょう。」
「どうかお願いします。」
「一体呼吸器の病気は胃腸を丈夫にしなければいけないものですから、胃腸の薬は絶えず取らなければならないでしょうが、然し、ほんとに胃腸に病気が出たとすると……。」
「駄目なものでしょうか。」
「そうですね……然し……。」
 言葉では何にも云えなかった。うち破れない黒い壁が前にあった。じりじりとその壁に向って進んでゆく外に、もう後ろをふり返れなかった。
「それにまた……。」
 と羽島さんは何やら云いかけたが、その時表の方に「御免!」という声が聞えた。そしてまた再び高くくり返された。
 羽島さんは立ち上った。
「いや……それではどうか医者の方をお頼みします。それに依ってまた……。」
 壮助はじっと其処《そこ》に残っていた。表の方からは「鉛筆と紙を」という年若い青年の声が響いた。羽島さんが鉛筆の入った箱を出しているらしい音も聞えた。それは一家を支える僅かな商売だった。
 羽島さん一家は、反対に田舎から都会に逐われて来た人達だった。社会の急激な変化と田舎に於ける収入の困難とは、そして特に地価と金利との急激な高低は、多くの地方人を都会のうちに逐い込んだ。其処には面倒な気兼ねや体面が無かった代りに、更に激しい生活の競争と底の知れない暗闇とが彼等を待っていた。羽島さん一家もそのうちの一つだった。身につけて来た僅かの資本で今の所に文房具店を開き、幸に場所がよかったため相当に客足もついたが、間もなく老母は日光と空気と運動との不足のために逝《い》った。その後三年許りの間に、老母の死によって蒙った家政上の欠陥を恢復し、女学校を出た光子の身なりをととのえ、更に此度《このたび》の彼女の病気に心ゆく手当を施すだけの収入は、勿論得られなかった。中学の英語教師を勤めている遠縁の壮助が、彼等のせめてもの頼《たよ》りとする唯一人だった。
 壮助はぼんやり室《へや》の中を見廻した。そして薄暗い片隅に散らばっている看護婦の所持品がまた彼の視線を引きつけた。
「もう看護婦が来て二月余りになる!」とふと彼は思った。そしてそのことが妙に彼を苛々《いらいら》さした。眼をつぶるとあの時の光景がはっきり浮んできた。
「年を越したら……。」と云っていた光子の病気は正月を迎えても少しも見直さなかった。或日壮助はまた見舞にやって来ると、光子は大変気分がいいと云っていた。で居間の方で羽島さんと話をしていると、病室の方から「早く!」と云う引き裂くような小母さん(壮助は光子の母をそう呼んでいた)
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