さんの姿を、色艶の悪いその顔を、仰ぎ見るようにした、助けを求めるような心で、百円を与えたことをはっきり意識した心で、そして……その返済を求むるような心で。
 壮助は座に堪えられないような気がした。そして病室に入《はい》ると、光子が急に大きな眼を開いて彼の顔を見た、そして口元に無心な微笑を漂わした。その側に坐って、彼は顔をそむけて涙をはらはらと落した。
 看護婦が座を立った時、光子は急に壮助の方に顔を向けた。
「津川さん、なぜ泣いたの。」
 壮助は光子の眼をじっと見返した。そして頬の筋肉がぴくぴく震えてくるのを感じた。
「なぜ泣くの。」光子の眼附がまたそう云った。
「光ちゃんがね、早くよくならないからつい悲しくなったのだよ。」
「あたしそんなに悪くはないわ。」
「ですから早く滋養分を取って元気をつけなければね……。」
「ええ、」と光子は頭を軽く動かした。「だから辛抱して食べてるのよ。」
 その時光子は急に起き上ろうとするようであった。壮助はその意味がはっきり分った。で枕頭の瓶をとりあげて見せた。
「これ?」
「ええ。」
 それはソップの瓶であった。中のものはすっかり飲みつくされていた。
「今日はすっかり飲んだわ。……でもそれはおいしくないのよ。」
 壮助は何と答えていいか分らなかった。
「私いつよくなるんでしょうね。もういいような気がするんだけれど……。」
 彼女の眼はただぼんやり開かれていた。そして其処に映っているものは淡い影のような物象だった。悲しみも苦しみも無いような澄んだ露《あら》わな光りが漂っていた。
 七時頃に大抵咳が来た。
 かすかな呼吸が乱れて来ると、喉のあたりに長く引いた吸気の痰に妨げらるる音がした。そして殆んど本能的に幾つもの空咳が為された。呼吸の数が不斉になり、頬の赤みが増してくる。そして喉にからまる痰の音が、はっきり聞えるようになる。それが暫くの間続いた。衰弱と長い習慣とのため、別に努力も為されなかった。そしてやがて、ぐっと何かつまったような音がすると、かっと痰が口腔の中に吐き出された。看護婦は小さく切った紙片を彼女の唇にあてて、その痰を彼女の舌の先から拭い取った。
「お水《ひや》。」と光子は云った。
 瓶の吸口から冷たい水を二口ばかり吸い取ると、暫らく口のあたりを動かした。そして眼が湿《うる》んでいた。
 光子はぼんやり其処《そこ》に居る人々を眺めたが、すぐに視線を外《そ》らしてしまった。そしてそのままの無関心な状態が、彼女をうとうととした眠りに導いた。
 壮助は腕を組んで光子の横顔を眺めていたが、一人取り残されたような自分の心を見出した。じっとして居れないような気持ちが胸先にこみ上げて来た。
 辞し去る時彼は、自分の前に視線を落して羽島さんの顔を見なかった。彼を見る自分の眼附を恐れたのである。
 外に出ると輝いた星としっとりとした空気との春の夜であった。何処かに温気《うんき》を含んだ静かな大気と軒燈の光りとが、遠くへ人の心を誘った。壮助は誘わるるままに明るい通りを人込みに交って流れていった。そして何等のはっきりした意志もなくとある活動館に入った。
 新派悲劇、泰西活劇、旧劇、そういう写真が彼の前に展開された。そして俗悪なる弁士の声が彼の耳に響いた。群集の頭顱が重り合って並んでいて、温気が館内に立ち罩めていた。凡て卑俗なもの、激情的なもの、混濁のうちに醸される好奇なもの、そんなものが彼の頭をぼんやりさし、彼の頭の中にもやもやとして熱《ほて》りを立ち罩めさした。写真の合間にぱっと明るく電気がついて、自分の側に眉の濃い鳥打帽の男や赤い手絡《てがら》の女やを見出す時、彼は顔を上げ得られないような気持ちに浸っていった。
 人波にもまれて活動小屋から押し出されると、彼はもう凡てが懶くなっていた。それでも何かに追われるように一人でに足が早められた。頭の芯に遠い痛みが在った。
 閉められている宿の戸をそっと開くと、内からお婆さんの大きい声がした。
「かっといて下さいよ。」
 その声をきくと、急に身体の筋肉が引緊《ひきし》められた。そして何かが、重い鈍なるものが、彼の眼の前にぴたりと据えられた。其処で凡てがゆきづまっていた。
「どうにでもなるようになるがいい。」と彼は投げ出すように呟いた。然しすぐその後から別な声が囁かれた、「あすという日が来たなら……。」
 然しながら、重苦しい眠りの中には、凶なる夢が彼を待っていた。
 ――広く明るい舞台の上にでも見るような室だった。何処から射《さ》すともない明るみが一杯に湛えていた。そして其処に妙な男が一人立っていた。姿は何にも見えなかったが、兎に角或る男が立っていることは事実だった。恐らく黒い布で覆面しているであろう。……そして何かが……盗みが今為されようとしていた。男は畳の数を
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