ら出来ますから。」
「いえいつでも宜しいですよ。……ですがね、お金が出来てもすぐに払ってはいけませんよ。私にお任せなさい、すっかり払うなんて馬鹿げていますよ。」
「え、その時はお願いするかも知れません。それでは一寸急ぎますから。」
壮助はそう云って机に向った。自分の方をじろりと見てゆく老婆の視線を背中に感ずるような気がした。
一人になると、彼は急に泣き出したいような感情がこみ上げて来た。凡てが浅間しくそして腹立たしかった。
彼は急いで古谷に手紙を書いた。――五日の晩は急用で後れたこと、金は今奔走中だから暫く待ってくれるようにということ、十五円だけ取り敢えず送るから利息の方へ入れてくれるようにということ。
壮助は手紙と金とを懐にしてそのまま表に飛び出した。郵便局で為替を組んでそれを出すと、初めて一日のことが顧みられた。
空を仰ぐともはや日脚が西に傾いていた。彼は一寸足を止めて、飢えたる犬のようにあたりをじろりと見廻したが、また急に羽島さんの家の方へ歩き出した。そして心の中で、「光子! 光子!」と叫んだ。眼が湿《うる》んできた。
五
怪しい誘惑がいつしか壮助の心に蜘蛛の糸のように絡《から》みついて来た。机に向っていてもふと気をゆるめると、彼の耳はじっと階下の物音に澄されていた。そして彼の眼の前には老婆の赤黝い顔が浮んだ。彼女は障子の側の火鉢によりかかるようにして坐ったまま、あたりをじろじろ見廻している。その丁度膝に当る畳の下に、夜彼女の枕が置かれる所に、古ぼけた欝金木綿の袋があって、その中に銀行の通帳とまた新らしい紙幣とがはいっている。じっと空間を見つめている壮助の眼は熱くほてってきた。
それは必ずしも盗みの心持ちではなかった。然し一歩ふみ出せば、そして一度ふみ出したら、もう後《うしろ》へは引返されそうになかった。
じっと物のすきを狙っていて其で妙におずおずした老婆の眼を、壮助は自分のまわりに見出した。縁側を通る時、彼女の眼は障子の内からその足音の方へ向けられた。表の格子戸を出入りする時、彼女の眼は彼の懐のうちに投げられた。或時勝手許に通ろうとする時壮助は我知らず老婆のまわりに不安な一瞥を与えた。その時彼女の眼は彼の内心に向けられた。
老婆の眼が壮助の神経に纒わって来るに従って彼の知覚はまた執拗に老婆の上に注がれた。彼女は室の真中に決して坐らなかった。何時《いつ》も隅の方で、仕事をし食事をした。晩にはわざわざ電気を片隅に引張っていって其処で夕刊を読んだ。それから夜床に就く前に、暫く蒲団の上に坐って何やら胸のうちで考えるのを常とした。その側の箪笥の上には稲荷様の小さな厨子があって、瀬戸の狐が二つ三つ置かれていた。
彼女は毎朝大抵日が高く昇ってから朝湯に行った。時々午後に何処《どこ》へか出かけて行って夕食前に帰って来た。その留守中、心持ち痩せた悧巧そうな小婢が勝手で働いていた。何か用を拵えて一寸使にやる、そしてその隙に老婆の室に自分が立っている……。
壮助はふと我に返って、自ら空想の糸をぷつりと絶ち切ると、不安がむらむらと起って来た。何か悪いことが、取返しのつかないことが起りそうであった。
ふいと表に飛び出すと、空が晴れていた。日が輝いていた。その中に在る自分の孤影が急に涙ぐまるるまで佗びしかった。そして光子の名をまた心の中で呼んだ。
光子の病気は殆んど同じ所に停滞していた。同じ様な容態の日が明けてはまた暮れた。然し何かが或る動き出そうとする力が、じりじりと迫って来つつあるのを思わせた。それはいい方へか又は悪い方へかは分らなかった。
「もう運に任せる外はありません。」羽島さんの眼付が云った。
「如何でございましょうかしら。」と小母さんの眼付が云った。
台所の用から衣類の始末まで小母さんは一人でしなければならなかった。そして羽島さんには彼の水滸伝と商売とがあった。貧しい食卓からさえも度々立ってゆかなければならなかった。
「ほんとに何にもございませんで……。」と小母さんは気の毒そうな顔をした。
「いやその方がいいんですよ。御馳走なら、光ちゃんがよくなってから沢山いただきましょう。」
壮助は屡々夕飯の世話をかけることさえ何となく済まないように思っていた。貧しい食卓が一家の引きつめた経済状態を思わせた。そして……それがまた自分自身を顧みさした、近々のうちに拵えなければならない、そして当のない、多額の金を。
「光子がもし助かるとすれば、皆あなたのお蔭です。」
羽島さんはそう云って淋しい顔をしながら箸を取り上げた。その言葉に小母さんがじっと眼を伏せている。
何という卑下《ひげ》であろう、そして其処には亦生活の疲れと長い心労とがあった。然しそれはまた一層濃い色を以て壮助自身のうちに返って来た。彼は羽島
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