胃腸の薬は絶えず取らなければならないでしょうが、然し、ほんとに胃腸に病気が出たとすると……。」
「駄目なものでしょうか。」
「そうですね……然し……。」
 言葉では何にも云えなかった。うち破れない黒い壁が前にあった。じりじりとその壁に向って進んでゆく外に、もう後ろをふり返れなかった。
「それにまた……。」
 と羽島さんは何やら云いかけたが、その時表の方に「御免!」という声が聞えた。そしてまた再び高くくり返された。
 羽島さんは立ち上った。
「いや……それではどうか医者の方をお頼みします。それに依ってまた……。」
 壮助はじっと其処《そこ》に残っていた。表の方からは「鉛筆と紙を」という年若い青年の声が響いた。羽島さんが鉛筆の入った箱を出しているらしい音も聞えた。それは一家を支える僅かな商売だった。
 羽島さん一家は、反対に田舎から都会に逐われて来た人達だった。社会の急激な変化と田舎に於ける収入の困難とは、そして特に地価と金利との急激な高低は、多くの地方人を都会のうちに逐い込んだ。其処には面倒な気兼ねや体面が無かった代りに、更に激しい生活の競争と底の知れない暗闇とが彼等を待っていた。羽島さん一家もそのうちの一つだった。身につけて来た僅かの資本で今の所に文房具店を開き、幸に場所がよかったため相当に客足もついたが、間もなく老母は日光と空気と運動との不足のために逝《い》った。その後三年許りの間に、老母の死によって蒙った家政上の欠陥を恢復し、女学校を出た光子の身なりをととのえ、更に此度《このたび》の彼女の病気に心ゆく手当を施すだけの収入は、勿論得られなかった。中学の英語教師を勤めている遠縁の壮助が、彼等のせめてもの頼《たよ》りとする唯一人だった。
 壮助はぼんやり室《へや》の中を見廻した。そして薄暗い片隅に散らばっている看護婦の所持品がまた彼の視線を引きつけた。
「もう看護婦が来て二月余りになる!」とふと彼は思った。そしてそのことが妙に彼を苛々《いらいら》さした。眼をつぶるとあの時の光景がはっきり浮んできた。
「年を越したら……。」と云っていた光子の病気は正月を迎えても少しも見直さなかった。或日壮助はまた見舞にやって来ると、光子は大変気分がいいと云っていた。で居間の方で羽島さんと話をしていると、病室の方から「早く!」と云う引き裂くような小母さん(壮助は光子の母をそう呼んでいた)
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