れた。
「…………」
 光子は軽く微笑んだ。ただあるがままの安らかな生命がそのうちに在った。
「彼女に生あらば……、」壮助はそう心の中に叫んだ。「凡てが救わるるであろう。」
 然しながら一瞬間の後には、荒凉たる頽廃の感情が彼を待っていた。息づまり杜絶されたような自分の生活が彼の眼の前に在った。
 運命が、あらゆるものが、何れかへ、転り出さんとしていた。一度動き出したらもう引止めることは出来そうになかった。凡てが険しい分岐点に立っていた。
 夜が暗く、そして凡てのものに不安な予感と鈍い光りとが在った。羽島さんの家政の奥に窺い寄らんとする眼があった。老婆の金を狙っている眼があった。更にまたそれらを担いながら、何物かに引きずられるような重苦しい勤労があった。
 翌日壮助は自分の机にもたれながら、困憊《こんぱい》のうちにうとうとと眠るともなく夢幻の境を辿っている時、突然川部の来訪に驚かされた。
 川部の興奮したような熱のある顔に接した時、壮助は急に飛び上りたくなった。
「君、あんな手紙を出して許してくれ。」
 壮助はじっと自分の心を押えて、頤をつき出しながら友の顔を見守った。
「いや、実は君が心配してるだろうと思ってやって来たんだ。」
「で?」
「金は出来そうだ。僕が今とりかかっている翻訳の原稿料を本屋から前借しようと思って今日行って来た。主任の者が居ないから確かな所は分らないが、多分出来るだろう。」
 そう云って川部は眼を伏せて何やら考え込んだ。
「…………」
 壮助は言葉では何にも云えなかった。急にぱっと明るい所に出たような気がした。それは一歩前にふみ出されたのであった。凡てのことが顧みられて、はっきり分って来た。
「三百五十円と云ったね。」
「ああ。」
「高利貸の方は一体いくらになっているんだい。」
「借りたのは二百円だが、何やかやで三百円近くになっている。それに此処《ここ》のお婆さんに返すのと、光子の家へも少しは助けたいから。」
「では兎に角三百五十円だけ拵えよう。金なんか、場合に依ってはどうにもならないものだが、またどうにもならない所に融通もきくものだ。……僕が高利貸のうちへ行ってやろう。まけさしてやるんだ。云われるままに取られる奴があるものか。大丈夫だ。そして僕には或る興味もあるんだ。単なる興味で動くのはいけないことだが、そればかりでもないから許してくれ。」

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