そして凶なる陰影に満ちた周囲のうちに、最早一人で立ち得ない自分の心を見た。心のうちには重く濁った雰囲気が澱んでいた。
壮助は殆んど盲目的に、川部に向って手紙を書いた。結果の如何は問う所でなかった。ただそうすることが自分の勤めででもあるかのように。――手紙の中に彼は今迄の事情を述べて、何処《どこ》からか金の融通が出来る途を紹介してくれるように頼んだ。詳しいことは逢って云うが先ず手紙でとりあえず願う旨を附記した。
手紙を出してから、彼はもう凡てのことを投《ほう》り出したような安易を覚えた。そして光子の許《もと》に急いだ。
肉の落ちた眼の大きくなった光子の顔を彼はじっと見つめた。光子の露《あら》わな瞳が彼の視線を吸い込んで、謎のようにぼんやり其処に在った。
「あたしもうすっかりいいような気がするわ。」
と光子は云った。それから何かを探し求めるような風《ふう》で一寸言葉を切ったが、また云った。
「よくなったような気がすると、急に亡くなったお祖母さんのことなんか思い出してよ。」
「よくなったら一緒にお墓詣りをしようね。」
「ええ。」
然し彼女の表情には、淡い混濁したものがあった。彼はそのうちに、彼女の生命の保証を、生きんとする生命の力の微光を探し求めた。
枕頭の病床日誌を取ってみると、その中に挾んである熱と脈搏と呼吸との三色の線の交錯が高低をなして続いていた。
「手を見せてごらん。」
「え、なあに?」そう云って光子は蒲団の外に片手を出した。
壮助はその手首を取ってみた。軽い脈搏が、その中に熱を持っているような血潮の流れが、彼の指頭に感じられた。
「まだ生《い》きる、生きなければいけない!」彼はそう心の中に呟くと、どうしていいか分らないような感情が一杯こみ上げて来た。そして彼女の掌をじっと握りしめた。その掌がかすかに痙攣するように感ずると、彼は自分の上に据えられている露《あら》わな二つの眼を見た。
避けられないものが二人の眼の中に在った。魂がじっと向き合っていた。息をつめたようなものがじりじりと迫ってきた。そして壮助は掴み取らるるような引力を自分の眼附のうちに感ずると、はっと我に返った。
光子は眼を外《そ》らしてぼんやり空間を見つめていた。凡てが静かで動かなかった。そして壮助ははらはらと涙を落とした。
「どうしたの?」
そう云って光子の眼がまた彼の方に向けら
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