前に足を止めた。羽子板には役者の似顔が、赤と白と紫とを重な色調とした絹で造られていた。弁慶や仁木弾正やめ組の辰五郎や野狐三次や、政岡や朝顔などのもあった。それは雛人形の飾り附けの一部をなしていたのがそのままに取り残されているものらしかった。そして今種々な玩具の並べられている所には、恐らく二三日前まで、幾組もの雛人形が、紅絹の段の上に黒塗の枠の中に並べられていたであろう。
「あの小さな羽子板はいいね。いくら位するもんだろう。」
川部のそう云った言葉が、壮助の気分を急に転換さした。今迄の重苦しい緊張が急に融《と》けて、彼は川部の顔を不思議そうに眺めた。
再び歩き出して暫くしてから彼は川部に云った。
「君少し……二、三十円ばかり暫く融通は出来まいか。」
「なに二、三十円、そんな金が僕のような貧乏人にあるもんか。然し是非なければいけないのか。」
「いや是非という程ではないが……。」
「それなら我慢した方がいいよ。いくらあっても要するに足りないんだから……。」そして川部は一寸言葉を切った。「金というものは、或人にとってはいくらでも無駄にごろごろ転《ころが》っているものだ。或人にとってはそれは貴い労力の結晶なんだ。また或人にとっては如何なる額の汗を以てしても得られない宝なんだ。其処から多くの誤られたる概念や人生観が生れて来る。貧に甘んずることが一番いいんだ。頭とそして心とを悪くなさないために……。」
「また君の論理癖だね。」
壮助はそう云って苦笑した。然し苦笑されないものが彼の心を急に脅かして来た。
兎に角古谷に逢わなければならない。
壮助は急に川部に別れを告げた。
「どうしたんだ。」
「いや急な用事を思い出したんだから。」
壮助はもう何にも考えなかった。ただ古谷に逢ってどうにかしなければならないという思いが、彼をぐんぐん下宿の方に引きずった。
下宿に帰るとお婆さんがすぐに出て来た。
「まあ今迄何処にいらしたのです。」
「何かあったんですか。」
「そら例の古谷さんが早くから来てね、先刻まで待っていたのですよ。お帰りがないから怒っていきましたよ。」
「そうですか。」
まだ何か云いたそうにしているお婆さんに壮助はただそう云ったまま、黙って自分の室に上っていった。そして火鉢の側にあった客座蒲団を室の隅に投《ほう》り出した。
彼は何かに対して怒鳴りつけたくなった。然し
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