怒りの対象となるべきものは何にもなかった。そして大きい不安が彼の全身を包んだ。凶なる予感が彼の心を苛々さした。その中で彼は物に縛られたようにぼんやり首を垂れて腕を組んだ。

     四

 そのままの気持ちが彼の夢の中に続いた。それから翌日眼が覚めてからも続いた。
 不安な予感で学校に出で、不安な予感で再び学校から帰って来ると、彼の机上には、わざわざ書留にした一通の封書がのっていた。古谷の名前を裏に見た時、壮助は却って或る安堵を覚えた。
 手紙には殆んど脅迫に近い文句が並べてあった。それから八日の晩に来ることが知らしてあった。その時までに一方の方だけ是非都合するように、もし出来なければ、元金だけ、もしくはその半金でもいいとしてあった。然しその時何等の返答なきに於ては、俸給及び家宅の差押をなす旨が言明してあった。五日から更に八日まで三日の猶予を与うるは異常なる親切だそうであった。
 そしてそれは実際壮助にとっては異常なる幸運だと感じられた。彼は古谷が既に差押の手続に及んだもの、もしくはそれを決心したものと信じていた。
「兎に角至急いくらか金を拵えなければならない。」壮助の心は其処に落ちていった。
 壮助は差押を受けることが、自分自身及び自分の生命に直接何等の関係もないことを感じた。然し乍らそれは直ちに自分のパンに関係する問題なることを思った。狭量なる教育社会と狭量なる世間とが彼の前に据えられた。其処に於ては凡てがきちんと、表面上余りにきちんと整っていた。そしてその整然たる網の目の下には大きい闇黒があった。一度その淵に陥ったら、再び浮び上ることは出来ないに違いなかった。彼が陥った為めに、一時網の目は揺《ゆら》ぐであろう。然しまたすぐに以前の整然たる形を取って、その下に陥った者を永久に閉じ籠めるに違いない。壮助は今迄の僅かな経験に於て、その網の目にしっかりとつかまっている人々と、またその下の闇に永久に封じ込まれた多くの人とを見た。
「日本の社会は余りに細かく整いすぎている。生きてゆくのが窮屈な位に……。」壮助はそう思った。然しその理論は結局何の役にも立たなかった。そして彼は其処に撲《なぐ》り倒されたような心を以て光子のことを思った。じっとしてはおれなかった。
 然し彼は如何に記憶の中をあさっても、至急に金の調達を頼むほどの知人を見出さなかった。単に話だけをなし得る人は二
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