岸辺《きしべ》の真菰《まこも》の中に隠れました。
 翌日になると、村の漁夫達《りょうしたち》は朝早く集まって、沼へ大きな網を入れました。大変重たいものがかかりました。そら正覚坊がかかったと言って、総掛《そうがか》りで、引き上げてみますと、大きな石ではありませんか。皆はがっかりしました。平助一人が心で喜びました。
 ところが漁夫達の中に一人の物識《ものし》りがいまして、そういう沼に住むくらいの正覚坊だから、きっと石に化《ば》けたのに違いない、と言い出しました。人々もなるほどと考えました。
 そこで、その石を正覚坊になすのが問題となりました。酒をぶっかけたらいいかも知れない、と一人の男が言い出しました。早速《さっそく》酒を取り寄せて、石にぶっかけてみました。けれども、元々《もともと》からの石ですから、酒をかけたくらいで正覚坊になりようわけはありません。
「なかなかしぶとい奴《やつ》[#ルビの「やつ」は底本では「ゆつ」]だ」とも一人の男が言いました。「この上は行者《ぎょうじゃ》に祈ってもらおう」
 一同はそれに賛成しました。幸いとその村の近くの町に、狐《きつね》つきを落としたりなんかする行者がいました。それがすぐに呼ばれてやって参《まい》りました。
 村中はお祭りのような騒ぎでした。御幣《ごへい》をこしらえるやら、色々な品物を供《そな》えるやらして、いざ御祈祷《ごきとう》となると、村中の人が男も女も子供も集まって来ました。行者はまっ白な着物をつけて、御幣を打ち振り打ち振り、魔法めいた文句を口の中で唱えながら、しかつめらしく御祈祷《ごきとう》を始めました。けれども、石は何としても石です。正覚坊《しょうかくぼう》になりっこはありません。
 そのうちに、額《ひたい》から汗を流して一生懸命に祈っていた行者《ぎょうじゃ》は、はたと祈りをやめて言いました。
「皆さん、これは正覚坊が化《ば》けたのではありません。元々《もともと》からの石です」
 村の人達はあっけにとられて言葉もありませんでした。やがてその気持ちが静まると、正覚坊に対して腹が立ってきました。この上はぜひとも本物の正覚坊を生捕《いけど》って、仕返《しかえ》しをしてやらなければならない、と口々に言い立てました。正覚坊が化けた石だと誰かがよけいなことを言ったのなんかは、もう忘れられてしまっていました。
 けれども、その日はもう夕方になりましたから、翌日|沼狩《ぬまか》りをすることにして、一同は罵《ののし》り立てながら引き上げました。
 それらのことを、平助は始終《しじゅう》胸をどきつかせて眺めていました。晩になると、困ったことになったと思案《しあん》にくれました。実はこうこうだと今更《いまさら》言い出したところで、村中の人の気が立ってる折りですから、それこそ、正覚坊ばかりではなく、平助までひどい目に逢わされるに違いありません。こうなった上は、夜のうちに正覚坊を逃がしてやるより外|仕方《しかた》ないのです。
 平助は死ぬような思いで、きっと決心をいたしました。酒をたくさん買っておいて、正覚坊が来るのを待っていました。正覚坊は平気な顔をして、いつもの通りやって来ました。
 二人は酒を飲み始めました。しかし平助は気がめいりこんでしまいました。終《つい》には涙をぼろぼろ流して、正覚坊の頭を撫《な》でながら、よく訳を言ってきかせました。
「そういう訳だから、もうお前とは別れなければならない。名残惜《なごりお》しいけれど仕方《しかた》がない。沖に出たら、暴風雨《あらし》やなんかに気をつけて、身体《からだ》を大事にするがよい。亀は万年も生きると言ってあるから、お前も長く生きて、時々は俺の事を思い出してくれよ」
 正覚坊《しょうかくぼう》も、平助の言葉がわかったかのようにうなだれてしまいました。涙をこぼすまいとつとめているように眼を瞬《しばたた》きました。
 そして、酒もなくなり、夜明けもまぢかになった頃、平助は正覚坊を連れて海に出ました。西の方の空に三日月が掛《か》かっていて、海の面《おもて》がぽーと明るくなっていました。
「それじゃこれで別れるから、達者《たっしゃ》に暮らせよ」
 そう言って平助は、正覚坊の頭を撫《な》でながら、沖の方へ放してやりました。正覚坊は何度もお辞儀《じぎ》をして、後ろをふり返りふり返り泳いで行きました。その姿が波の向こうに見えなくなってからも、平助はぼんやりそこに立っていました。
 やがて、早くも夜が明け放《はな》れて、村の人達は沼狩《ぬまが》りを始めました。しかしもう正覚坊がいなくなった後のことです。いくら狩り立てても取れません。一同は諦めて帰って行きました。
 それからというものは、平助はまるで気抜けのようになりました。そして、毎日沼のほとりに出ては、かの大石を正覚坊の
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