正覚坊
豊島与志雄
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)正覚坊《しょうかくぼう》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)若い時|荒海《あらうみ》の
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)奴《やつ》[#ルビの「やつ」は底本では「ゆつ」]だ
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正覚坊《しょうかくぼう》というのは、海にいる大きな亀《かめ》のことです。地引網《じびきあみ》を引く時に、どうかするとこの亀が網にはいってくることがあります。すると漁夫《りょうし》達は、それを正覚坊がかかったと言って大騒ぎをします。正覚坊が網にかかるときっと大漁がある、と言われているのです。漁夫達は皆集まって正覚坊をとり巻き、近所の家から酒をたくさん取り寄せて、それを正覚坊に飲ませます。正覚坊は酒が好きです。頭が赤くなるほど酒のごちそうになって、それから海に放されます。うれしそうに頭を打ち振りながら、波の上を沖の方へ泳いで行きます。漁夫達はその姿を見送って、残りの酒を皆で飲みながら、大漁節というおもしろい歌を歌ったりなんかして、次の大漁を祝います。
そういう正覚坊について、おもしろい話があります。
ある海岸の漁夫村に、平助《へいすけ》という一人者の漁夫がありました。昔は沖遠くまで漁に出たりなんかして、強いたくましい若者でしたが、家族の者はみんな死んでしまい、ひとりっきりで年は取りますし、後には、岸辺《きしべ》の小魚や川の魚などを取って、その日その日を送っていました。そしてこの平助は、酒が大変好きでした。いくら飲んでも酔ったことがありませんでした。あまり飲むと身体《からだ》にさわるよと人に言われても、彼は平気でした。酔うから身体にさわるので、俺《おれ》のように酔ったためしのない者はいくら飲んでも大丈夫《だいじょうぶ》だ、と彼はいつも言っていました。始終《しじゅう》貧乏をしながら、少しお金があると酒ばかり飲んでいました。村の人達は彼のことを、正覚坊《しょうかくぼう》だとあだなしていました。
ひどい暴風雨《あらし》の晩でした。平助はいつものように徳利《とくり》を前にすえて、ひとりつまらなそうに酒を飲んでいました。すると、表の戸をことりことり叩くものがあります。初めは風の音かと思っていましたが、それが何度も続くものですから、平助も少し気になりました。彼は杯《さかずき》を前に置いて、表の方をふり返りながらたずねました。
「誰だい?」
何の返事もありませんでした。耳をすますと、風と雨との音に交《ま》じって、やはりことりことりと戸を叩いています。
「何か用事かね」と平助はまたたずねました。
それでも返事がありませんでした。しまいに平助は、仕方《しかた》なしに立ち上がって、表の戸を開いてみました。さっと風と雨とが吹き込んで来たかと思うまに、闇の中から、まっ黒な大きなものが、のそりのそりとはい込んできました。平助は腰《こし》をぬかさんばかりに驚きました。よく見ると、それは畳《たたみ》半分ほどもある大きな正覚坊でした。
正覚坊だとわかると、平助は初めてあんどしました。いきなり表の戸をしめて、正覚坊を部屋の中に連れて来ました。正覚坊はそこにぐったりとなって、喉元《のどもと》をふくらましながら、はあはあと息をきらしてるらしいのです。
「おい、どうしたんだい」と平助はたずねました。
正覚坊《しょうかくぼう》はじっとしています。いくらたずねても黙っています。それもそのはずです、亀《かめ》に口がきけるわけはありません。平助はそれに気付いて、ひとりで声高く笑い出しました。そしてそれはきっと沖の方から暴風雨《あらし》に吹きつけられて来たのだろう、と考えました。それで、元気をつけてやるために、徳利《とくり》の酒を茶碗についで差し出しました。すると、正覚坊はその中に首をつき込んで、きゅーっと一息《ひといき》に飲み干しました。平助はうれしくなりました。縁起《えんぎ》がいいと言われてる正覚坊が、向こうから訪《たず》ねて来てくれたんですもの、漁夫《りょうし》としてこれくらい愉快《ゆかい》なことはありません。平助はすぐに、ありったけのお金で、酒をたくさん買って来ました。そして二人で飲み始めました。正覚坊もだんだん元気になってきまして、しまいには酔っぱらって部屋の中をおかしな格好ではい廻ります。亀踊りをやってるのでしょう。平助も酔っぱらって首や足を振り動かしてる正覚坊にちょうしを合わして、歌を歌ったり手拍子《てびょうし》をとったりしました。
そのうちに、酒はなくなりますし、夜はだんだんふけてきますので、とうとう、平助はそこに倒れたまま眠ってしまいました。
朝になってふと眼を覚ますと、平助はちゃんと布団《ふとん》を着て寝ているのでした。見ると、正覚坊も
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