ずき》を前に置いて、表の方をふり返りながらたずねました。
「誰だい?」
何の返事もありませんでした。耳をすますと、風と雨との音に交《ま》じって、やはりことりことりと戸を叩いています。
「何か用事かね」と平助はまたたずねました。
それでも返事がありませんでした。しまいに平助は、仕方《しかた》なしに立ち上がって、表の戸を開いてみました。さっと風と雨とが吹き込んで来たかと思うまに、闇の中から、まっ黒な大きなものが、のそりのそりとはい込んできました。平助は腰《こし》をぬかさんばかりに驚きました。よく見ると、それは畳《たたみ》半分ほどもある大きな正覚坊でした。
正覚坊だとわかると、平助は初めてあんどしました。いきなり表の戸をしめて、正覚坊を部屋の中に連れて来ました。正覚坊はそこにぐったりとなって、喉元《のどもと》をふくらましながら、はあはあと息をきらしてるらしいのです。
「おい、どうしたんだい」と平助はたずねました。
正覚坊《しょうかくぼう》はじっとしています。いくらたずねても黙っています。それもそのはずです、亀《かめ》に口がきけるわけはありません。平助はそれに気付いて、ひとりで声高く笑い出しました。そしてそれはきっと沖の方から暴風雨《あらし》に吹きつけられて来たのだろう、と考えました。それで、元気をつけてやるために、徳利《とくり》の酒を茶碗についで差し出しました。すると、正覚坊はその中に首をつき込んで、きゅーっと一息《ひといき》に飲み干しました。平助はうれしくなりました。縁起《えんぎ》がいいと言われてる正覚坊が、向こうから訪《たず》ねて来てくれたんですもの、漁夫《りょうし》としてこれくらい愉快《ゆかい》なことはありません。平助はすぐに、ありったけのお金で、酒をたくさん買って来ました。そして二人で飲み始めました。正覚坊もだんだん元気になってきまして、しまいには酔っぱらって部屋の中をおかしな格好ではい廻ります。亀踊りをやってるのでしょう。平助も酔っぱらって首や足を振り動かしてる正覚坊にちょうしを合わして、歌を歌ったり手拍子《てびょうし》をとったりしました。
そのうちに、酒はなくなりますし、夜はだんだんふけてきますので、とうとう、平助はそこに倒れたまま眠ってしまいました。
朝になってふと眼を覚ますと、平助はちゃんと布団《ふとん》を着て寝ているのでした。見ると、正覚坊も
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