場合に、Aに関する場合とBに関する場合とでは、AなりBなりの性格に押されて、おのずから、自然に、話し方を異にする。話し方を異にするのは、主体のない事実だけを持出すのではなくて、主体に事実を従属させること、主体のために事実が歪曲されることに外ならない。なお云えば、歪曲した事実こそ、本当の事実である。
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主体のための事実の歪曲、否、歪曲した事実しか存在しないということは、作家の立場から云えば、一見矛盾のようであるけれども、一人称の否定と三人称の肯定とを強要する。勿論これは創作態度についての比喩的な言葉である。も少し敷衍すれば、一人称に固執する時には、主体が没却されて、歪曲しない事実が現われてき、三人称の態度を守る時に初めて、歪曲した事実の見通しがついて、主体が生き上ってくる。
こう云ってくると甚だ詭弁のように聞えるかも知れないが、例えば――私はこの一文のなかで作品評をやる意志は毫もなく、ただ説明の便宜上手近な作品を例にとるまでであるが――藤森成吉氏の「移民」をみるとよく分る。この作には、アメリカへ出稼ぎに行ってる山田という男の浮沈が書かれているけれども、実は、山田という人
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