物は居ても居なくてもどうでもよろしい。ただ、アメリカに於ける日本移民の経済状態だけが、その労働状態と搾取被搾取との関係だけが、問題なのである。その事実は真直な事実だろう、統計的な事実だろう。そしてその事実を説明するために、事実だけでは小説にならないので、山田という人物があちこちへ引張り廻されている。この場合、山田は作者の頭の中で、三人称で取扱われたかまたは一人称で取扱われたか。一人称で取扱われてるという答えきり見出せない。随って、循環論になるが、そこに述べられてる事柄は、歪曲されない真直な事実ばかりである。主体のない行動だけである。
 資本主義社会の解剖はこういう風にやらなければ仕方ないものかも知れない。然しそれには、もっと簡単強力な方法がいくらもあるだろうと思われる。小説のなかに、山田という人物を描き、資本主義社会に於けるその浮沈の運命を描くには、山田を生き上らせることも必要であろう。山田を生き上らせるには、山田を三人称で取扱う必要がある。
 改めて断るまでもなく、この三人称とか一人称とかいうのは、対象物に対する視距離や観察面や取扱方法などをひっくるめた広義の批判の仕方の比喩的表現で
前へ 次へ
全17ページ中11ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング