ある。所謂一人称小説とか三人称小説とかとは、全く別物である。三人称小説のうちに、一人称的取扱のものが案外多く、一人称小説のうちに、三人称的取扱のものがままある。惜しまるるのは、嘉村礒多氏の作品である。氏のものは殆んどみな一人称小説であるが、これが一人称的取扱を脱却して、三人称的取扱にまでぬけ出るならば、作品に光が増すと共に、人間生活の味がにじみ出すばかりでなく、それに対する考察が必ずや加わってくるであろう。けれどこの作者はまだ、一人称的取扱の堅い殼の下に喘いでいる。「神前結婚」のなかには、作品が一流雑誌に掲載されるのを知って狂喜する無名作家のことが書かれているが、そしてそんなことでそんな風に狂喜するのは一つの性格ではあろうが、ただそういうものかなあと吾々に思わせるだけで、一体どんな男が狂喜したのかさっぱり分らない。それは作者自身だといったところで、作品としては意味を為さない。
 多くの婦人の頭の動きには、三人称的批判と一人称的我執とが錯綜するので、往々にして吾々を面喰わせる。彼女等は普通は、一人称的取扱に終始し、或る程度の感情の興奮に達すると、益々その我執が甚しくなり、更に感情の高調に
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