、芸術的構成の緊密さが欠けていることは、決してこの大作家等の名誉とはならない。プルーストの「失われし時を索めて」やジョイスの「ユリシーズ」などは、殊に後者は、小説の在来の形式を破壊するものだと云われているが、その芸術的構成には並々ならぬ苦心が払われている。この苦心が如何なる種類のものか、吾々はも一度考え直してみる必要があろう。私はこれらの作品を、作者の意欲の方向に反対するが故に、余り高く評価しないのではあるが、然しその芸術的構成には種々の示唆を受ける。
吾国の作家は、この芸術的構成ということを余りに軽視しがちではあるまいか。いやそれよりも、批判の力が不足なためにそうした結果を来したのかも知れない。このことは一人の作家の業績を辿っても分る。例えば、横光利一氏の「受難者」には、いつもほどの批判力を作者が持ち続けていないことが現われている。受難者芝の異常な心理を描出するに当って、芝の性格に対する作者の批判と把握とが不足してるために、一篇の構成がひどく弛んでいる。外部から間接に取扱った為ではなく、取扱う前の用意に於て、どこか至らない処があったのであろう。
事件や行為など、凡て人事的な事柄は
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