創作ではないけれども、小穴隆一氏の「二つの絵」に見出さるる。筆者は単に事実の報告のみでなしに、芥川の性格を浮出させようと意図したらしい。ところが、濃霧のなかに無数の光をともしたようなその文章は面白いけれど、初めの意図は失敗に終ってるようである。いろいろな事実の棒杭が打立てられ、その棒杭の一つ一つに灯火がともされ、そして濃い霧が一面にかけている。その濃霧と灯火とのかもし出す幽暗な雰囲気に誘われて、中にふみこんでみると、至るところで、硬直な棒杭に躓く。そして晩年の芥川の風貌は、捉うるに由もない。事実の棒杭が余りに真直に打立てられず、或る程度の傾斜と弾力性とをもっていたならば、芥川の全貌はもっとはっきりしたであろう。
如何に写実的な画面にしろ、物の実相を描出するためには、その形態に多少の歪曲が余儀なくされることを、故岸田劉生氏の絵画に於て吾々は見てきた。ロダンの彫刻に就ては茲に云うまでもない。その歪曲は、作者の批判から来る。文学に於ても、人物の性格風貌を描き出さんがためには、その人物に関する事実に一種の歪曲が余儀なくされる。その歪曲は、作者の批判からくる。実際吾々は、同様な事件や行為を話す場合に、Aに関する場合とBに関する場合とでは、AなりBなりの性格に押されて、おのずから、自然に、話し方を異にする。話し方を異にするのは、主体のない事実だけを持出すのではなくて、主体に事実を従属させること、主体のために事実が歪曲されることに外ならない。なお云えば、歪曲した事実こそ、本当の事実である。
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主体のための事実の歪曲、否、歪曲した事実しか存在しないということは、作家の立場から云えば、一見矛盾のようであるけれども、一人称の否定と三人称の肯定とを強要する。勿論これは創作態度についての比喩的な言葉である。も少し敷衍すれば、一人称に固執する時には、主体が没却されて、歪曲しない事実が現われてき、三人称の態度を守る時に初めて、歪曲した事実の見通しがついて、主体が生き上ってくる。
こう云ってくると甚だ詭弁のように聞えるかも知れないが、例えば――私はこの一文のなかで作品評をやる意志は毫もなく、ただ説明の便宜上手近な作品を例にとるまでであるが――藤森成吉氏の「移民」をみるとよく分る。この作には、アメリカへ出稼ぎに行ってる山田という男の浮沈が書かれているけれども、実は、山田という人
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