物は居ても居なくてもどうでもよろしい。ただ、アメリカに於ける日本移民の経済状態だけが、その労働状態と搾取被搾取との関係だけが、問題なのである。その事実は真直な事実だろう、統計的な事実だろう。そしてその事実を説明するために、事実だけでは小説にならないので、山田という人物があちこちへ引張り廻されている。この場合、山田は作者の頭の中で、三人称で取扱われたかまたは一人称で取扱われたか。一人称で取扱われてるという答えきり見出せない。随って、循環論になるが、そこに述べられてる事柄は、歪曲されない真直な事実ばかりである。主体のない行動だけである。
資本主義社会の解剖はこういう風にやらなければ仕方ないものかも知れない。然しそれには、もっと簡単強力な方法がいくらもあるだろうと思われる。小説のなかに、山田という人物を描き、資本主義社会に於けるその浮沈の運命を描くには、山田を生き上らせることも必要であろう。山田を生き上らせるには、山田を三人称で取扱う必要がある。
改めて断るまでもなく、この三人称とか一人称とかいうのは、対象物に対する視距離や観察面や取扱方法などをひっくるめた広義の批判の仕方の比喩的表現である。所謂一人称小説とか三人称小説とかとは、全く別物である。三人称小説のうちに、一人称的取扱のものが案外多く、一人称小説のうちに、三人称的取扱のものがままある。惜しまるるのは、嘉村礒多氏の作品である。氏のものは殆んどみな一人称小説であるが、これが一人称的取扱を脱却して、三人称的取扱にまでぬけ出るならば、作品に光が増すと共に、人間生活の味がにじみ出すばかりでなく、それに対する考察が必ずや加わってくるであろう。けれどこの作者はまだ、一人称的取扱の堅い殼の下に喘いでいる。「神前結婚」のなかには、作品が一流雑誌に掲載されるのを知って狂喜する無名作家のことが書かれているが、そしてそんなことでそんな風に狂喜するのは一つの性格ではあろうが、ただそういうものかなあと吾々に思わせるだけで、一体どんな男が狂喜したのかさっぱり分らない。それは作者自身だといったところで、作品としては意味を為さない。
多くの婦人の頭の動きには、三人称的批判と一人称的我執とが錯綜するので、往々にして吾々を面喰わせる。彼女等は普通は、一人称的取扱に終始し、或る程度の感情の興奮に達すると、益々その我執が甚しくなり、更に感情の高調に
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