達すると、清澄な三人称的批判にぬけ出すことがある。それが急転直下、間髪をいれない変化なので、驚異に価する。そして彼女等の感情の高調時に於ける、三人称的批判と一人称的我執との交錯は、芸術作家にとっては他山の石となり得るものを持っている。芸術家には女性的分子が多いからというのではない。女性に於ける感情の高調は、男子に於ては心意の燃焼に相応する。心意の燃焼のうちに、創作の一つの秘鑰がある。この時、清澄なる三人称的批判を取失わない者こそ、傑れた芸術家であろう。
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正しい批判は、物を曲げて見ることはない。曲ったものを真直に見ないだけのことである。一つの人物性格を捉える時、それに附随する事実の歪曲を認識するだけのことである。
これに関連して、芸術的構成ということが問題となってくる。
ポール・ヴァレリーは、詩作の筆をたって二十年間、数学殊に幾何学を研究した。それから珠玉のような名篇を書いた。彼は幾何学から芸術的構成を学んだのである。芸術的構成は、文学の形式などという手前のものではなく、もっと奥の方のものである。奥という言葉が悪ければ、もっと本質的なものである。言葉の重量、理知の明暗、感情の母線や子線、性格の凸凹面など、そういうものの認識の上に立つ表現方法を意味する。
私はここに、或る建築家の歎声を思い出す。オフィスを主とする高層建築などは、眼をつぶっていても出来るし、コンクリートの家ならば、片眼をつぶっていても出来るが、木造の小住宅に至っては、いくら両眼を見張っていてもまだ足りない、というのである。住む人の、生活様式、趣味、家族の年齢、性癖などと、あらゆるものを考慮に入れなければならない上に、一本の柱や一片の木材までが、それぞれ生きた表情を形造るのである。これくらい厄介な骨の折れる仕事は他にあるまいという。――そして出来上った住宅を見ると、みなそれぞれ一の表情を具えているし、一の性格を持っている。不用らしく見えるものでもみな何かしらの役目を帯びて、全体が殆んど有機的な組織をなしている。文芸作品も、こうした有機的な組織を保っている――保っていなければならない。作品のもつ力は――その生活力は、この有機的組織の緊密の度合に懸っている。そして傑れた建築家は傑れた批判者であって、その批判の眼から、構成の緊密さが得らるる。
ドストエフスキーやトルストイの或る種の作品に
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