、芸術的構成の緊密さが欠けていることは、決してこの大作家等の名誉とはならない。プルーストの「失われし時を索めて」やジョイスの「ユリシーズ」などは、殊に後者は、小説の在来の形式を破壊するものだと云われているが、その芸術的構成には並々ならぬ苦心が払われている。この苦心が如何なる種類のものか、吾々はも一度考え直してみる必要があろう。私はこれらの作品を、作者の意欲の方向に反対するが故に、余り高く評価しないのではあるが、然しその芸術的構成には種々の示唆を受ける。
 吾国の作家は、この芸術的構成ということを余りに軽視しがちではあるまいか。いやそれよりも、批判の力が不足なためにそうした結果を来したのかも知れない。このことは一人の作家の業績を辿っても分る。例えば、横光利一氏の「受難者」には、いつもほどの批判力を作者が持ち続けていないことが現われている。受難者芝の異常な心理を描出するに当って、芝の性格に対する作者の批判と把握とが不足してるために、一篇の構成がひどく弛んでいる。外部から間接に取扱った為ではなく、取扱う前の用意に於て、どこか至らない処があったのであろう。
 事件や行為など、凡て人事的な事柄は、その当面の主体たる人物性格によって、一種の歪曲をなす。またこの歪曲を辿る時には、その人物性格につき当る。この条理を明確に認識する作家は、芸術的構成の真諦を解するものと云ってよいだろう。
      *
 其他、まだ云わねばならぬ事柄があるけれど、時間不足のためにこれで止める。
 近代の文学は、個人の精神内部に、識域下に、広い領土を発見した。また、階級という観念のなかに、広い領土を発見した。そして前者の新らしい心理描写――行為の説明のための心理解剖ではない――の文学が、性格を軽視すると共に、後者の結局は権力をめざす階級闘争――真の社会革命のための闘争ではない――の文学も、性格を軽視する。これは自然の勢であろう。これに対抗して、性格を重視することが、文芸を貧困から救う一つの途であることを、一言附加しておきたい。



底本:「豊島与志雄著作集 第六巻(随筆・評論・他)」未来社
   1967(昭和42)年11月10日第1刷発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2006年4月24日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.a
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