が書かれているけれども、その伸吉や規子がどういう人物だか、読み終っても少しも分らない。或る青年男女がこういう行動をしたというだけで、「われわれは絶えず前進しなければならぬ。」というレーニンの言葉を作者から聞かせられるだけで、さてそれだけだとすると、余りに淋しいではないか。そのために、都会の総括的叙述と市電の或る危険箇所の記述とを冒頭にした、面白い――そして作意の強烈な――構想までが死んでしまっている。芸術も階級闘争の武器以外の何物でもない、とするならば、どうせ芸術という武器を使う以上は、芸術的に傑れた武器である方がよいだろう。
 茲で、こういうことが考えられる。人間は、眠っていない限り、誰でも絶えず動いている。それが前進であるか後退であるかは別として、絶えず動いている。ところが人生に於ける動き方は、前後左右とも各人の自由である。それが、一つの事件によって、或る者は右に行き、或る者は左に行く。その行程を延長すると、運命という言葉で表現されるものを形成する。然るに吾々はもはや、運命の決定要素を、神とか宿命とかいう神秘境には認めない。吾々はそれを、当人の生活姿態と性格とのうちに認める。右方へ行く者は、右方への運命を辿る者は、余程の偶然事がない限り、必然にそうなるべき生活姿態と性格とをもっている。物理的な自由さは、人事的条件によって制約される。そしてこの生活姿態と性格とは、時により緩急の差はあるが、絶えず変化してゆく。前進か後退かは、その変化の形式に過ぎない。
 この、物理的自由に対する人事的条件の制約を、傑れた芸術家ははっきり捉える。そしてその作品のなかでは、人物の生活姿態と性格とは、その行動と不可分離の関係にあり、その行動の延長は、その人物の運命を暗示し、やがて運命と合致する。性格というものを広義に解釈し、なお夾雑物を除去すれば、性格を描くことによって運命を描くとも云い得る。これは芸術の至高の境地である。人間の欲望を否認して強権主義による解放を夢想するボルシェヴィズムは、恐らく芸術のこの境地を認めないであろう。だが、イデオロギーとか実践とか云っても要するに人物性格の問題だと、実際運動にたずさわった多くの人が最後の歎声をもらす、その真実のところを、左翼作家の多くが文学創作に当って考えることの少いらしいのを、私は不思議に思うのである。
 性格批判についての或る暗示が、これは
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