端に云えば、文学のなかには、労働者よりももっと労働者らしい労働者、会社員よりももっと会社員らしい会社員、狂人よりももっと狂人らしい狂人……などが現われてきても、一向に差支えはない、ただそれが生命のないロボットでさえなければ。
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作品を読んでゆくうちに、種々の人物性格に出逢うほど嬉しいことはない。淋しい旅行中に、心惹かるる人物に出逢ったようなものである。何かしら考えさせられ、ひいては、人間生活の事、社会の事、人類のことまで考えさせられる。人の心に与えるそういう動力は、作品の存在理由の最も大切な一つである。
定評ある名作のことは云うまい。手近な雑誌をめくりながら、私は幾つかの性格を瞥見した。例えば、須井一氏の「労働者源三」のなかの源三、那須辰造氏の「鼠」のなかの犀太郎、などはそれである。源三が余りに呑気な闘士であろうと、犀太郎が余りにひねくれた少年であろうと、そんなことは目障りにならない。目障りにならないどころか、そのために却って性格の重みがまして、どこかその辺にいそうな人間のような気を起させる。これが一歩誤れば、傀儡となり拵え物となりそうだが、踏み外していないところが豪い。其他いろいろ、性格の輪廓なり半面なりに出逢ったが、今月号の諸雑誌に現われた作品全体について云えば、むしろ性格の過少が目についた。なお云えば、マイナスの性格の過多が目についた。
マイナスの性格というのは、プラスの性格に対する言葉である。はっきり極端に云えば、労働者よりも労働者らしくない労働者、会社員よりも会社員らしくない会社員、狂人よりも狂人らしくない狂人で、要するに誰でもよい人物なのである。茲で典型と類型とが問題になりそうだが、典型とはある種の人々にあてはめ得る個性であり、類型とは個性を失った通性であるという、普通の解釈に従っておいて差支えない。その典型は固より、類型さえも甚だ稀薄な、マイナスの性格が如何に多いことか。
作者は必ずしも、性格を描かなくてもよろしい。人物性格をぬきにした作品にも、他の存在の理由はある。けれども、マイナスの性格にばかり数多く出逢う時、所謂文学の貧困を歎かずにはいられない。
例えば、藤沢桓夫氏の「新らしい夜」を読んで、一種の淋しさを感ずる。左翼運動に身を投じてる伸吉という青年と、その運動にはいってゆく規子というブールジョア娘とのことが、そしてその恋愛
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