残っているのは、人物性格のそれである。人物性格が現われていない作品を、吾々は最も多く忘れ去る。
ドン・キホーテやハムレットのような典型は別としても、少しく文学に親しむ者の間では、日常、彼はオブローモフのような男だとか、サアニンのような奴だとか、ゴリオみたいな親爺だとか、或は、彼女はカチューシャのような女だとか、ノラみたいな婦人だとか、そういった言葉が聞かれる。けれども、文学の中に描かれてる場面や情景や事件をもってきて、何々のような場面とか情景とか事件とかという言葉は、殆んど耳にすることがない。描かれてる場面や事件や情景は、ただ、その人物に依存するのみである。
文学のなかに描かれてるこうした人物性格は、旅行の記憶のなかに存在する自然の景色と同様に、面貌の取捨選択からひいては抽出強調をくぐって、簡明化されると共に加重されて、何かしらプラスの人物性格を形成している。これが歪曲されず、作者の傀儡とならず、生きた生命を保ってるところが、不思議と云えば不思議でなくもない。
この不思議をなしとげるものが、芸術的批判である、と私は云いたい。それは理知的な批評や解剖ではない。個別的にレッテルをはりつけるような分類ではない。もっと全的な批判、云わば、魚を網で掬いあげるようなものである。然し掬いあげた魚を、盤台の上に置き並べると、見ているうちに死んでしまう。
無批判ということは、芸術の上では、之を字義通りに解釈すると、大変な誤りに陥る。吾国の自然主義小説がいつしか身辺雑記的な心境小説に堕していったことに於て、吾々はこの誤りを経験した筈である。私見私情を去り、善悪美醜を超越して、対象の真を掴むということは、写真機になるという意味ではなかった。真は批判の規準であって、善悪美醜を超越して無私無我の境地に身を置くことは、その批判的態度であった。美が批判の規準となるように、真も批判の規準となり得る。そして美が時代と共に変化するように、真も時代と共に変化する。ただ、批判がなくなる時に、美も真も死滅する。芸術上の無批判が相対的態度に過ぎないことは、実践上の無主義が相対的態度に過ぎないのと同様である。無批判ということを絶対的に解釈すれば、自然主義文学は訳の分らないものとなる。
こう云ってくると、批判の意味がはっきりするだろう。人間に対するこういう批判から、プラスの性格が生れてくる。そしてなお極
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