勿論私は、日本の新陣営の作家を悉く、バルザックやツルゲネーフなどと比較して論断するの意はない。けれども、社会の進化は各部門に於て為されなければならないし、文学をやる者は、平常、文学の部門に於て働かなければならないと信ずるが故に、新陣営の作家が余りに性格探求を怠ってるのを、不審に思うのである。
彼等の作品には、余りに性格が少く、余りに事件や場面が多すぎる。事件、場面、そして事件と場面ばかりだ。オルガナイザーの行動、ストライキの裏面、労働者の生活、工場の内部、留置場、刑務所、其他種々のことを読者は読ませられる。けれども、社会運動に挺身して奮闘している人物をまざまざと示されることは、殆どないと云ってもよい。そこで読者は、遂にこう云うだろう。――事件や場面のことならば、種々の報告書を読む方がより正確だし、種々の場所を見物する方がより明瞭だ。吾々はそんなことよりも、その中で活動してる人間を知りたい。そしてそのためには、多くの小説を読むよりも、例えば、三田村四郎氏の獄中からの手紙数通を読む方が、まだましである。云々。
これに対して、彼等は何と答えるだろうか。
社会運動者の忍苦と意力、周囲
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