水甕
――近代説話――
豊島与志雄
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)小林《しょうりん》拳法
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)小説4[#「4」はローマ数字、1−13−24]
−−
仁木三十郎が間借りしていた家は、空襲中に焼け残った一群の住宅地の出外れにありました。それは小さな平家建てでしたが、庭がわりに広く、梅や桜や楓や檜葉などが雑然と植え込まれており、その庭続きにすぐ、焼け野原が展開していました。焼け野原はもう、処々に雑草の茂みを作りながら、小さく区切られた耕作地となり、麦や野菜類が生長していました。そして畑地と庭との間には、低い四つ目垣が拵えてあるきりでした。
その庭の片隅に、ばかに大きな水甕が一つ伏さっていました。東京では殆んど見かけられない大きなもので、何のために其処へ据えられたのか分りませんでした。借家主の平井夫婦は、戦争中、先住者がいち早く地方へ逃げ出したあとに、移転してきたのですが、その時から水甕はそこにあったのだそうです。恐らくずっと以前から、昔から、そこにあったのでしょう。その水甕は、空襲前から、防火用水を一杯たたえていましたが、終戦後、いつのまにか、逆さに伏せられてしまいました。誰がそんなことをしたのか分らず、そのまま放置されていました。平井夫婦もそれを殆んど眼にとめていませんでした。
この家の一室に住むことになった仁木三十郎は、戦争中、大陸の田舎で、似寄った甕をよく見かけたことを思い出しまして、或る時、それを横に起してみました。中はきれいで、泥も塵もついていず、地面がただそこだけ湿って黒ずんでるだけで、何の奇異もありませんでした。
ところが、仁木としては、水甕の中に何の奇異もないことが、別に奇異を期待していたわけでもないのに、ちょっと不満でした。そして水甕はそのまま打ち捨てましたが、不満だけは残りました。なにか世の平凡さに退屈しきっていたとも言えましょうか。
仁木の生活はもう落着いていました。終戦の翌年のはじめ東京に帰還してきてから、数ヶ月間、ぼんやり宙に浮いていたような心も、もう胸の奥にしっかと腰を据えました。田舎の温泉で暫く保養した身体は、不自由な食糧事情のなかにあっても、逞ましい健康を持ち続けました。軽いマラリヤの発作も、もう殆んど起らなくなりました。通俗な電気器具を拵えてる小さな町工場の会社では、彼を意外なほど優遇してくれました。兄一家の狭苦しい商店の片隅から、平井家の八畳の一室に移り住むと、その室がはじめは広すぎて佗びしく思われるほどでした。平井は配電会社に勤めてる老人で、夫婦とも温厚な好人物でした。息子の戦死が最近になって初めて分明し、一室を仁木に貸すことにしたのです。夫婦の外に、堀内富子という中年の女がいまして、炊事雑用を一切やり、仁木の日常の用事も手伝ってくれました。それから猫が一匹いました。
ありふれた牡の黒猫で、四足が白く、首の下にも白いところがありました。その白毛の配置がちょっと奇妙で、四足が拵え物のように見えることもあれば、首の下の白いのが熊の月の輪のように見えることもありました。この月の輪のために、クマと名づけられていました。空襲によってその辺が広範囲に焼けた後、家の中にはいりこんできた猫で、長い尻尾をまっすぐに立ててその先で何度も唐紙を撫でたので、どこかの飼い猫だったことが分ったそうでした。
長い尻尾を立ててその先で唐紙を撫でるのが、クマの癖でした。それはたいてい、食物がほしいとか、背中を掻いて貰いたいとか、なにか人間に用のある時でした。それ以外はいつも知らん顔で、人間の方は見向きもしませんでした。そのクマを、仁木はひどく可愛がりました。夜は同じ蚊帳のなかに寝ました。
そのようにして静かに落着いてる仁木三十郎が、ふしぎなことには、乱暴な怖い男だという印象を周囲に与えてるようでした。或る時、配給の酒を一緒に飲みながら、平井老人はしみじみと仁木の様子を見守って言いました。
「世の中のことは、辛棒が大切だよ。あんたもまあ若いから、癇癪玉を押えつけるのを、修業の第一とするがいいよ。」
また、或る時、会社で、業務上の相談会のあと、主任の江川は彼の肩を叩いて囁くように言いました。
「お互に、自重しようよ。直接行動はいつでも出来るからね。」
それらのことが、仁木にとっては、意外でもあり心外でもありました。彼はいつも控え目に、口もあまり利かぬようにしていました。但し、好奇心から町会の総会に出てみました時、区役所からの種々の通達がいつも余りにさし迫って来るので困るということについて、そのような御役所式な通達は無視して取り合わないがよかろうと、卒直に言ったことはありました。また、会社のいろんな運営方針については、従業員のすべてに自分の会社だとの意識を持たせるような、ただその一線だけを進むべきだと、卒直に言ったことはありました。いずれも卒直な素朴な言葉で、それがどうして、癇癪玉だの直接行動だのに関係がありましたろうか。それよりも寧ろ、彼が憂欝そうに黙りこんで煙草など吹かしてる、その態度こそ、人目につき易かったのでありましょう。血気盛んな筈の三十歳あまりで、顔色は浅黒く、頭髪は硬く、眼は輝き、口許には冷笑を浮べ、肩がいかり、手がへんに大きな、そういう彼が憂欝そうに黙りこんでるところは、なにか乱暴な爆発が起るかも知れないと思わせるものがありました。
然るに仁木自身は、心に別種な惧れを懐いていました。癇癪玉とか直接行動とかいうことは、一つの形を具え一つの方向を持ってるもので、時代的に何等かの政治思想を予想させるのでした。実際、日本は一大革命に突入していました。敗戦後の軍隊の解散と連合軍の進駐。軍国主義及び官僚主義から民主主義への転向。戦争放棄を声明し主権を人民に帰せしむる新憲法の起草。戦争犯罪の主脳者達の逮捕と裁判。戦時中の指導者層の公職からの追放。主要財閥の解体。勤労者層の自覚と労働運動の勃興。言論や出版や結社の自由、其他さまざまの事柄によって、所謂無血革命が成就されようとしていました。ところが、仁木が周囲に日常見る大衆は、それらの革命的事柄に殆んど無関心であり、殆んど無反応であり、相変らずの小市民的な利己主義と卑俗さのうちに低迷していました。そこには苦悶もなく明朗さもなく、ただ呆けたような憂欝があるばかりでした。そして仁木自身も、新聞紙上で華かに謳われてる無血革命そのものには、大した関心を持ちませんでした。政治的に与えられた自由とか、或は獲得すべき自由とかは、復員帰還者として多少無理押しな行動をしているうちに、もうすっかり消化しつくして、端的に人間としての自由な境地にさ迷い出ていました。そこへ、大衆の呆けたような憂欝が反映してきて、彼の自由な心境を曇らせました。そのことに彼は内心で反抗しながら、ますます無口になり憂欝になってゆきました。俺はどんなことを仕出来すか分らないという危惧が、胸の奥に湧いてきました。もしも乱暴な爆発が起るとすれば、それは、平井や江川が気遣ったのとは別種なものとなったでしょう。
暑い夏の日々が続きました。仁木は雷雨と雷鳴を待ちこがれましたが、それらしいものは一向に来ず、強い日差しに、焼け跡の菜園の作物は萎れがちでした。
その暑い中を、仁木は黙々として会社へ通い、黙々として事務を執りました。組合運動には何の熱意も示しませんでしたが、現場の工員たちからは信頼の眼で見られていました。雑貨の小さな店舗を出してる兄の商売を、彼は好まず、そちらへは殆んど顔を出しませんでした。けれど、復員者仲間の一人が闇商売をやっているのへは、好意を見せて、会社関係からいろいろ便宜をはかってやりました。そして彼の許へもいろいろ物資がはいってきました。それを、平井夫婦や富子はたいへん喜びました。然し彼は、お世辞を言われてもただむっつりしていました。
酒を飲むのが彼の唯一の道楽のようでした。屋台の飲食店がたくさん並んでる方面へ出かけてゆき、メチールの危険の少い馴染みの飲屋で焼酎をあおりました。梯子飲みをすることもありました。その調子は、そういう屋台店の市井的気分を愛してるのではなく、逆にそれを軽蔑しながら、ただ酒だけを愛してるような風でした。
酔って帰ると、彼は雑誌を読むか、または黒猫のクマを相手に遊びました。クマはその黒い顔に丸い眼を光らしてるだけで、彼からどう扱われようと平気で、信頼しきってるのか、全く従順なのか、彼に全身をゆだねますが、やがて倦きてくると、爪を立てて手掛りを求め、ぱっと飛びのきました。それから外を一廻りし、戻ってきて、まだ起きてる彼から声をかけられると、長い尻尾をまっすぐに立てて、その先で唐紙を撫でながら、恥かしげに寄ってきました。
そのクマが、或る時、失踪してしまいました。はじめは、さかりがついて、一匹の牝猫を中心に、集まってきた数匹の猫と一団になり、ぎゃあぎゃあ騒ぎたてていましたが、そのままどこかへ行ってしまって、一週間たっても、十日たっても、戻って来ませんでした。
仁木三十郎は、猫の自由恋愛に敬意を表して、縁先や庭の隅や菜園の中など処かまわず、彼等がうるさく鳴きたて騒ぎたてるのをじっと我慢していましたが、やがて、その賑やかな一団がどこかへ退散してしまい、それと共にクマが行方をくらましてしまったのが、気にかかりました。
平井夫婦は、クマを迎え入れたと同じ平気さで、クマの失踪を見送りました。さかりがついて遊び歩いてるのだから、やがて帰ってくるだろうと言っていました。だが富子の方は、クマの行方を気にして、町内の知人に逢えば聞きただし、用達しの往来にはあちこちに眼を配りました。
ただ一度、十日ばかりたった午後、クマはのっそり帰ってきました。頭や首筋に傷や皮膚病をこさえ、後半身は泥に汚れていました。それを富子は抱きかかえ、魚の骨をしゃぶらせ、バタをなめさせ、乏しい米飯をたべさせ、刷子で全身をこすってやりました。クマはまん丸な眼を空想的に見開いてるだけで、なされるままに任せ、やがて縁側に寝そべりました。ところが、富子がちょっと席を立ったすきに、またどこかへ行ってしまいました。
そのことを聞いて、仁木は富子に一種の憤懣を感じました。彼女の大柄な体格、なんだか幅の広い顔、細い眼付などが、善良を通りこした愚昧さに見えました。
俺なら、せめて一日か二日、クマを監禁しておくんだったと、彼は胸の中で言いました。
そして実際、彼はクマに対して、奇怪な監禁の方法を考えました。
クマが再度失踪してから、また十日ばかりたった頃でした。もう朝夕は仄かに秋の気が感ぜられるような季節で、東京ではあちこちに、復興祭と神社の祭礼とを兼ねた祝いごとが催されていました。神輿がかつぎ出され、神楽と手踊と歌謡と手品とがごっちゃに行われ、後ればせの盆踊まで始められました。しかもそれが丁度、政府の方からの一般物価統制の強化の時期で、商店街復興の先駆をなす屋台店や露店が、多くは屏息してる時のことでした。
その夜、仁木はちと腹の虫の居所がわるかったようでした。会社で、或る種の在庫製品のことについて、主任の江川と意見がくい違い、解決は明日のことにしようとごまかされてしまった、その故もありましたろう。けれど直接には、屋台の飲屋の雰囲気の故だったでしょう。
だいたい、この復興祭なるものが仁木の気に入りませんでした。そこには、真の復興を志す気魄などはみじんもなく、戦争がすんでほっとした気持ちの、それも終戦後一年余りたった後のその名残りの、頽廃的なものがあるばかりで、ささやかながら露命をつないできたという、みみっちく有難がる享楽気分まで交っていました。だから、各種の催し物にしても、在来の形式から一歩も出でず、新たな工夫創意などは片鱗さえも見えませんでした。復興だから在来の形式の踏襲でもかまわないとはいえ、少くとも何等かの純化浄化はあって然るべきだ
次へ
全3ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング