ったでしょう。敗戦に打ち拉がれて地面を匐ってるようなそれら群衆の中で、仁木はもう少しく酔いながら、孤独な憂欝に沈みこんでゆきました。
 復興祭だ、公然も内緒もあるものか、景気よくやっつけましょうや……などと屋台の飲屋の主人は言いながら、額には狡猾な笑みを浮べていました。種々の男が入れ代って、アルコールで調合した焼酎を飲んでゆきました。
 その奥の腰掛に仁木は腰をおろし、飲台に肱をつき、焼酎のコップと煙草とを交る代る口へやりながら、孤独な憂欝にますます沈んでゆきました。その憂欝はあらゆることを忘れさせる魅力を持っていて、異邦人めいた感懐を彼に起させました。
 彼がふと気がついてみると、あちらの端に坐ってる男が、鈎の手に曲ってるこちら側に坐ってる男へ、高飛車に突っかかり、こちらは卑屈に頷いたり弁解したりしていました。どちらも中年の男で、あちらは開襟シャツにズボン、恐らくは下駄でもはいていそうで、近辺の地廻りの者らしく、こちらは、着くずれた国民服で、恐らく地下足袋でもはいていそうで、けちな闇ブローカーらしく見えました。
「しみったれたことを言うもんじゃねえよ。酒飲みにはしみったれが禁物だ。」と言うのはあちらの男でした。「飲む金が儲からなけりゃ飲まねえ……なあ、おい、そんなら、金を飲んだらよかろう。酒飲みは酒を飲むものなんだ。ここの店に来る者あ、酒飲みばかりだ。なあ、おやじ、そうじゃねえか。……俺なんか、飲む金がなくっても飲むんだ。それでも迷惑はかけやしねえ。おやじ、そうだろう。そこがコツさ。……なあ、おい、しみったれちゃあ、酒がまずくならあ。飲む金がなくっても、飲めるだけ飲んでみな。豪勢なもんだ。」
 主人はいい加減にあしらっていました。がこちらの男は、へんに真面目とも見える卑屈さで、返事をしていました。
「そうですとも、しみったれは禁物ですな。……だから私なんかあ、弟が復員してきて、まあいくらか儲けてくれるから、こうして飲めるというもんです。……いや、弟がいなくなっても、やっぱり飲みますよ。全く、迷惑はどこにもかけませんさ。……ただの酒さえ飲まなけりゃあ、酔っ払って地面に寝ても、雲の上に寝てるようなもんですからな。」
 ただの酒さえ……のそのことが、またあちらの男の気に障ったと見えて、彼はそれに絡んでまた突っかかってきました。
 その時、仁木はふと立ち上って、二人の顔を一度にじっと見据えました。――先刻から主人はあちらに背を向けて、こちらの男に、もう相手になるなと、目配せをしたり合図したりしていました。それに明らかに気付きながら、こちらの男はやはり、卑屈な応対を続けていました。しかも彼は、相手より体力もありそうだし、一段上の太々しいところを具えていました。あちらの男ばかりでなく、こちらの男に於ても、なにか下心あっての道化た応対のようでした。それを仁木は見て取りました。そしてそれらの狡猾なからくりに、仁木は突然嘔き気に似た憤りを覚えました。その時にもう、仁木は我知らず突っ立っていました。
 彼はちょっと、ふらふらと眩暈に似た気持ちがしました。それから、葦簀囲いのその狭い屋内に、自分自身を巨人のように感じました。油の煮立ってる黒い揚げ鍋、小皿物をこさえる俎板や庖丁、酒瓶やコップなど、器具類が玩具のように見えました。腕を一振りすれば、その屋台店全体をぶっ飛ばせそうでした。それは快楽的な魅惑でした。そして彼は、両手を腰の後ろでしっかと握り合せていました。うっかり弾みをつければ人間ぐらいわけなく殺せる自分の拳法を、習慣的に警戒したのです。そして彼は二人の男を一つ視野のうちに見据えながら突っ立っていました。
 なにかただならぬ気配に圧せられて、屋内はしいんと静まりました。二人の男も主人も他の二三の客も、無言で仁木を見守りました。その中で仁木は嘯くように葦簀張の天井を仰ぎ、勘定を聞いてそれを払い、のっそりと出て行きました。
 それから先のことを、彼は断片的にしか覚えていません。ほかの所でも一度焼酎を飲んだようでもあり、飲まなかったようでもありますが、それはどちらでも同じことでした。つまり、彼はすっかり酔っ払っていました。そしてだいぶ長く歩いて、家に帰りました。
 ぼーっと明るい月夜でした。
 家の庭で、猫が数匹、ぎゃあぎゃあ騒いでいました。彼は四つ目垣の外の方へ廻って、そっと窺いました。
 一匹の牝猫を中心にして、数匹の牡猫が蹲まっていました。もう牡同志の喧嘩はやめて、牝の隙だけを狙っていました。隙が見えると、二三匹が同時に忍び寄ってゆき、中の一匹がぱっと牝に飛びかかりました。そして暫くもみ合ってるうち、牝は急に怒って牡に噛みつきました。牡は少しく退去しました。すると牝は、また尾を振り頭をさげて、媚態の声を立てました。牡は三方からじりじりと忍び寄ってゆきました。
 それらの牡猫のなかに、クマの姿は見えないようでした。それでも仁木は諦めず、四つ目垣を乗り越してゆきました。すると、庭の隅の大きな水甕が眼につきました。全く誂え向きに水甕はそこにありました。仁木は手頃な石を拾ってきて、伏さってる水甕を少しく傾け、石を下にあてがって、猫を入れられるほどの口をあけておきました。
 猫の群れはまだ庭のあちらで騒いでいました。仁木はそちらへ行き、こんどは四つ匐いになって近づきました。だが、いくら探してもクマはいませんでした。仁木は怒って、牝猫を捕えようとしました。そしても少しのところで、牝猫はするりと逃げのび、それから遠くへ行ってしまいました。その間中一度もクマの名を呼ばなかったことを、彼は思い出し、なぜか後悔しました。
 彼は裏から家の中にはいりました。湯殿の戸は締りがしてなくて開きました。燃料不足のために風呂はもう長く沸かされず、ただ洗面所としてだけ使われていました。
 彼はそこに服をぬぎすて、手を洗い、顔を洗い、足を洗い、そして水をやたらに飲みました。水を飲んで却って更に酔いが出てきました。
 彼がそこに屈んで息をついていますと、寝間着姿の富子が、電灯の明りの中につっ立っていました。彼自身で電灯をつけたのか、或は富子がつけたのか、それは分りませんでしたが、とにかく電灯の明りの中に、裾を引きずった寝間着姿の富子が、幻影のように白痴のように立っていました。
 彼女は何か言ったようでしたし、彼も何か言ったようでしたが、その声は彼の耳に達しませんでした。彼女は彼を援け起しました。すると彼は彼女を抱きしめてその唇を吸っていました。へんに冷たい濡れた唇でした。その感触に彼がすがりついていますと、突然、彼女の肉体はくりくり盛りあがってき、半球形を無数につみ重ねたような工合になり、彼はその重みに抵抗しきれずに倒れました。そして倒れながら彼女にしがみつき、また彼女に援け起され、彼女の重みを抱きしめました。
 彼はもう力失せ、彼女が巨大な力になりました。彼女は彼をその居室に連れこみ、そしてどこかへ行ってしまいました。

 宿酔気味の頭をかかえて仁木三十郎は起き上りました。富子の顔付や態度は、いつもと少しの変りもありませんでした。それが却って意外に思えたほど、仁木自身はなんだか落着きを失っていました。出戻りの大柄な中年女にとっては、前夜のことぐらいは、仁木が記憶してる限りのことぐらいは、何でもないことだったかも知れません。仁木にとっても、所謂接待婦の肉体なども識っており、それは何でもないことでした。けれども、それ自体は、何でもないことでも、そういうことが起ったのが、そしてつまりは、そういうことを彼自身がなしたのが、異様に感ぜられました。屋台店でのあの眩暈に似た魅惑も、異様でした。彼は自分の前後左右に、一種の空間、自由自在な空虚を、見出したような気がして、その中にしっくり落着けませんでした。
 そのままの気持ちで、彼は会社に行き、事務を執りました。退出まぎわになって、江川から、あのことをゆっくり相談したいから附き合ってくれと言われました時、彼はただ無造作に承諾しました。在庫製品についての話だとは分りましたが、もうそれには大して関心が持てませんでした。
 江川に連れられて行った先は、焼け残りのくすんだ花柳界で、そこに仁木は、会社関係の宴会で前にも来たことがありました。こんどのは、ちょっとこじんまりした待合で、中はへんに静かでした。ところで、そこには既に中本が来ていて、二人がはいってゆくと、間もなく芸者たちも立ち現われ、酒がはじまりました。仁木は会社で中本を何度か見かけたことがあり、中本の方でも仁木を知ってる筈でした。それにも拘らず、中本は仁木を鄭重に扱って、改めて名刺[#「名刺」は底本では「名剌」]まで差出しました。名前の肩に、金谷組総長とあるところからみると、相当な顔役らしく思えました。応対万事、折目折目は礼儀正しく、あとはぞんざいに流して、目玉をぎょろりとさしてるところなど、それと頷かれました。五十年配で、洋服の膝を折っているのが窮屈そうでした。
 その中本が、既にそこに待ち受けていたということによって、江川の相談なるものも、もう相談などを通りこしているのだと、仁木は悟りました。
 事柄は甚だ簡単なものでした。――会社の工場で、製品の一つとして電熱器を試作していました。当時新たに世に出てる電熱器は、ニクロム線が露出していて切れ易く、而も熱量の調節の出来ないものばかりでした。それを少しく改良して、二つの線に切り変えて二様の熱量に調節出来るようにし、取り外しの出来る薄い鋼板を上に被せてみたのです。つまり、昔は普通にあった電熱器の、も少し粗末なものを拵えてみたに過ぎません。主な材料は手持品のなかにありました。ただ、それが多量にないため、試作品ということにして、ストックされていたのです。然し、やがて、燃料欠乏の冬期をめあてにそれが売り出され、多分の利潤を得て、年末の特別手当の増額となるであろうということを、この小さな会社の従業員たちは暗黙のうちに了解していました。そういうところへ、突然、中本の手に在庫電熱器を引渡すという議が起りました。そして代償としては、コード用の銅線ばかりでありました。その物々交換の交渉は、専務と中本との間でなされ、専務はその決定を従業員の幹部へ通達しました。幹部連中は反対しました。中本はもともと、各方面に関係してる社長のところへ親しく出入りしてる男だということが、周知の事実であり、そこから或る疑惑が起りました。また、折角の製品が、中本の手に渡れば、露店の闇商人などにばらまかれる恐れがありました。また、物々交換となれば、会社の保有現金についての不安もあり、それは直ちに従業員全体の懐に影響しますし、且つ、交換の価格比率についての不安もありました。そして専務と談合の末、製品は或る価格で中本に譲り、中本は或る価格で銅線を納入するという、甚だばかげた妥協に結着したようでした。
 その間、仁木はいつも素朴に、問題は従業員の総意に問うべきだと言いました。主張はせず、問わるれば言うだけでした。最後までそう言いますので、江川がよく相談しようということになったのです。
 然し、もう相談することなどはありませんでした。
「あの問題は……、」とそういう言い方を江川はしました。「実はつまらんことだね。第一、試作品だからね。」
「ええ、試作品です。」と仁木は気の無さそうに答えました。
「よく考えてみれば、大して問題にはならんようだ。」
 そこへ、中本が横から口を出しました。
「試作品をべらぼうな値で押しつけられちゃあ、こっちがたまりませんね。会社の信用にも関わりますぜ。」
「いや、試作品はいつも最優秀品ときまっていますよ。ただ箇数が少いのが難点でしてね……。あの材料を多量に、あなたの方でなんとかなりませんかね。」
「さあね、私もそれを考えてるんだが……。」
 そんな風に、話はもう問題を通りこして、一般の経済情勢や政府の施策に及んでゆき、間々に巷説や逸話を織りこみました。
 仁木は黙って酒を飲みました。彼のそばについてる芸者が、杯があけばすぐに酒をつぎました。それが後ではう
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