るさくなり、少し待てよと言っても、彼女はまるで機械のように、杯があけばすぐにつぎました。それを江川がまたけしかけました。
「仁木君の酒は会社でも有名だ。おい、しっかりお酌をしろよ。」
「大丈夫よ。こちらのお杯、からになったら、あたし、罰金だすわ。」
言葉通り、彼女は決して仁木の杯をからのままにはしておきませんでした。
仁木はぼんやり彼女を眺めました。お酌するより外に能がなさそうな、そしてお酌するためにだけそこにいるような、その女から、彼は一種の圧迫を感じはじめました。しかも彼女自身は、ただの平凡な若い芸者にすぎませんでした。二重瞼の、殆んど近くを見ずただ遠くだけを見るような、その眼差しが凉しいきりで、他に取りえもなく、笑う時には、大きな口のまわりに、年増めいた二筋の皺がより、坐っておれば普通の体躯に見えますが、立ち上ると、ひどく背の低いのが目立ちました。こんな者、気にすることはないと、仁木は思って、床の間の花などを眺めました。青磁の花瓶に、梅もどきへ菊をそえて活けてありました。梅もどきの実はまだ青く、白と黄との小輪の菊の花は、花弁が堅そうに縮んでいました。それを見ながら、うっかり飲むと、まだ杯を下に置かぬうちに、彼女はもう銚子を取りあげて酌をしました。
料理は粗末だが、酒は尽きませんでした。
江川はもう可なり酔って、そばの芸者に爪弾きをさせながら、都都逸などをうなっていました。中本は端坐から胡坐になっただけで、いつまでも姿勢をくずさず、お座敷を勤めているのかどうか分らない身扮りの老妓を相手に、静に話をし静に飲んでいました。
ふしぎなのは一座の様子で、普通は芸者たちがあちこち席を変えて空気を一つにまとめあげるものなのに、そこでは、芸者はそれぞれ一人の客に付き添ったままで、恰も遊廓のような工合でした。互にあちこち話をし、言葉のやりとりをしても、それが途切れると、また男女一組ずつに別れてしまいました。
自分の相手方になり、そばにぴたりと付き添ってる女から、仁木はもう遁れられない気がしてきました。次から次へと、彼女は忠実に酌をしました。この機械的な動作の繰り返しの間に、仁木は搾木にかけられてる気持ちでした。彼女に杯をさす気にはなれませんでした。また、杯を満たしたまま放っておこうとすれば、それは彼女の機械的な動作を中絶させることで、すっかり調子が狂いそうでした。そう思うのも、彼がもう酔っ払ってきた故だったかも知れません。
酔ったのかなあと、彼はふと、夢からさめたように考えました。そして立上りかけましたが、片膝だけで、また坐りこみ、杯を取りました。それを口へは持ってゆかず、じっと眺めました。光りがちらちら、月の光りのように映っていました。それへ、女は間違えて銚子を差付けました。
「よせよ、もうよせよ。」
どなりつけて、仁木は杯を一口に飲み干し、卓子の上にかたりと置きました。それへ、女は銚子を差付けました。
「もうよせよ。」
女は笑顔をしたようでしたが、それより早く、仁木は彼女の手から銚子を払い落しました。銚子は卓上に砕け散り、酒が四方へはねました。女はきっと身構えたようでした。そのとたんに、仁木の平手は彼女の横面へ飛びました。彼女は声も立てずに、そこへ突っ伏しました。
そのことに、彼自ら茫然としていました。次の瞬間、彼の右手首は、中本の手で押えられていました。彼は口許にかすかに冷笑を浮べながら、静に立ち上りかけました。中本は坐ったまま、卓子越しに彼の手首を捉えていました。揺ぎのない力のようでした。その力に彼は手首を任せながら、中腰になって、ちょっと考えました。突然、彼は中腰のまま卓子を廻り、左手を中本の腕に飛ばせました。中本は仰向けに倒れました。
中本はすぐ起り上り、坐ったまま、握りしめた両の拳を卓子について、仁木を見つめました。仁木は突っ立ったままで言いました。
「危いからおやめなさい。僕はあなたに反感は持っていません。危いからおやめなさい。……失礼しました。」
彼は少しく蒼ざめていました。そして静かに室から出て行きました。
淡い月光のなかを、仁木三十郎は歩いてゆきました。
危い危い、と彼は胸の中で呟きました。彼は自分の拳法のことを考えていたのです。それは大陸にいる時に習得したものでした。師匠の言うところに依りますと、昔、伏牛山の小林寺に、達磨大師が易筋経なるものを伝え、その易筋経の中に書かれてるところのものが小林《しょうりん》拳法として今に伝えられているのだそうでした。その小林拳法の正統な秘術を、師匠は会得しているとのことでした。そういう師匠について、仁木は修業しました。師匠と別れて後も、独りで錬磨しました。激しい拳法で、相手の生命に関わることがあるので、うかつには使えませんでした。そして帰国してからは、自らそれを警戒する習慣となりました。中本相手の時には用心しながら使って仕合せでした。も少しで危いところでした。
けれども、自ら禁じたその拳法を、既に多少とも使ったのです。そこには、新たな空間が、自由に振舞える空間がありました。
そして彼は、夢みるような気持ちで、前夜のあの屋台店に行ってみました。主人は愛想よく彼を迎えました。けれどそれきりで、何の奇異もありませんでした。あの壮大な魅惑は、片鱗さえも残っていませんでした。葦簀張の屋台店はみすぼらしく狭苦しく、揚物の油の匂いがたちこめていました。仁木は無意味に焼酎を幾杯か飲みました。
もう足許がふらふらしていました。それはマラリヤの発作の時と同じようでした。そして彼は憂欝で、その憂欝に自ら憤っていました。
復興祭はまだ続いていました。或る広場に拵えられてる舞台では、新作の音頭が歌われ踊られていました。大勢の群衆が四方を取り巻いていました。
その群衆の中に仁木は押し入ってゆきました。人々の怪しみ驚くのもかまわず、人込みの中を押し分けて、舞台のまわりを歩きました。まもなく、ふしぎにも、人垣の抵抗が感ぜられなくなりました。彼の身体はその群衆の中を、水をでも押し分けるように容易く、通りぬけてゆきました。どこにも、殆んど抵抗がありませんでした。
それならば……と仁木は両腕を組んで考えこみました。と同時に、危惧の感が起ってきました。これからどんなことをするか分りかねました。その辺の人々を踏み潰すかも分りませんでした。そういうことが起らないとは保証出来ませんでした。新たな深淵を覗きこむような怖れと寂寥が襲ってきました。
彼は真直に歩いてゆきました。焼け跡に出ました。そしてなお歩き続けながら、このままでは済むまいと思い、一種の戦慄に似た眩暈を感じました。
路傍に仄白い石がありました。彼はそこに腰を下して、煙草を吸いました。傍には丈高い雑草が繁茂していました。青臭い匂い、辛い匂い、薄荷めいた匂い、それらが一緒になって、彼を誘いました。彼は野獣のように茂みの中にころげこみました。
時がたちました。仁木は何かの気配に、むっくり身を起し、びっくりしたように突っ立ちました。すぐ近くに、二人の女が立っていました。その二人が、一息つくまに、走りだしました。走りだして、一散に逃げてゆきました。その方へは仁木は眼もくれず、首垂れながら、ふらりと歩きだしました。
なにかしんしんと考え耽ってるようでもあり、白痴のように放心してるようでもあり、その区別が彼は自分でも分りませんでした。
四つ目垣が、月の光りに仄かに見えました。彼はそれを乗り越しました。大きな水甕の伏さってるのが眼につきました。彼は竦んだように佇みました。それから空を仰ぎました。それから……甕をいろいろに動かし、あらん限りの力をしぼって、斜めにした甕の中にはいりこみ、自分の上に甕を伏せてしまいました。それでも、片方に石をあてがって空気の流通口をあけることを忘れませんでした。
甕の中は、驚くばかりの静寂でした。物音がすべて聞えないばかりでなく、外界と全く絶縁された境地でした。望んだ通りの自己監禁の場所でした。仁木は安堵の吐息をついて、地面の上に胡坐をかき、両腕を組んで眼をふさぎました。
底本:「豊島与志雄著作集 第四巻(小説4[#「4」はローマ数字、1−13−24])」未来社
1965(昭和40)年6月25日第1刷発行
初出:「群像」
1947(昭和22)年1月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2008年1月16日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全3ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング