けました。軽いマラリヤの発作も、もう殆んど起らなくなりました。通俗な電気器具を拵えてる小さな町工場の会社では、彼を意外なほど優遇してくれました。兄一家の狭苦しい商店の片隅から、平井家の八畳の一室に移り住むと、その室がはじめは広すぎて佗びしく思われるほどでした。平井は配電会社に勤めてる老人で、夫婦とも温厚な好人物でした。息子の戦死が最近になって初めて分明し、一室を仁木に貸すことにしたのです。夫婦の外に、堀内富子という中年の女がいまして、炊事雑用を一切やり、仁木の日常の用事も手伝ってくれました。それから猫が一匹いました。
ありふれた牡の黒猫で、四足が白く、首の下にも白いところがありました。その白毛の配置がちょっと奇妙で、四足が拵え物のように見えることもあれば、首の下の白いのが熊の月の輪のように見えることもありました。この月の輪のために、クマと名づけられていました。空襲によってその辺が広範囲に焼けた後、家の中にはいりこんできた猫で、長い尻尾をまっすぐに立ててその先で何度も唐紙を撫でたので、どこかの飼い猫だったことが分ったそうでした。
長い尻尾を立ててその先で唐紙を撫でるのが、クマの癖でし
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