た。それはたいてい、食物がほしいとか、背中を掻いて貰いたいとか、なにか人間に用のある時でした。それ以外はいつも知らん顔で、人間の方は見向きもしませんでした。そのクマを、仁木はひどく可愛がりました。夜は同じ蚊帳のなかに寝ました。
 そのようにして静かに落着いてる仁木三十郎が、ふしぎなことには、乱暴な怖い男だという印象を周囲に与えてるようでした。或る時、配給の酒を一緒に飲みながら、平井老人はしみじみと仁木の様子を見守って言いました。
「世の中のことは、辛棒が大切だよ。あんたもまあ若いから、癇癪玉を押えつけるのを、修業の第一とするがいいよ。」
 また、或る時、会社で、業務上の相談会のあと、主任の江川は彼の肩を叩いて囁くように言いました。
「お互に、自重しようよ。直接行動はいつでも出来るからね。」
 それらのことが、仁木にとっては、意外でもあり心外でもありました。彼はいつも控え目に、口もあまり利かぬようにしていました。但し、好奇心から町会の総会に出てみました時、区役所からの種々の通達がいつも余りにさし迫って来るので困るということについて、そのような御役所式な通達は無視して取り合わないがよかろう
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