ずっと以前から、昔から、そこにあったのでしょう。その水甕は、空襲前から、防火用水を一杯たたえていましたが、終戦後、いつのまにか、逆さに伏せられてしまいました。誰がそんなことをしたのか分らず、そのまま放置されていました。平井夫婦もそれを殆んど眼にとめていませんでした。
 この家の一室に住むことになった仁木三十郎は、戦争中、大陸の田舎で、似寄った甕をよく見かけたことを思い出しまして、或る時、それを横に起してみました。中はきれいで、泥も塵もついていず、地面がただそこだけ湿って黒ずんでるだけで、何の奇異もありませんでした。
 ところが、仁木としては、水甕の中に何の奇異もないことが、別に奇異を期待していたわけでもないのに、ちょっと不満でした。そして水甕はそのまま打ち捨てましたが、不満だけは残りました。なにか世の平凡さに退屈しきっていたとも言えましょうか。
 仁木の生活はもう落着いていました。終戦の翌年のはじめ東京に帰還してきてから、数ヶ月間、ぼんやり宙に浮いていたような心も、もう胸の奥にしっかと腰を据えました。田舎の温泉で暫く保養した身体は、不自由な食糧事情のなかにあっても、逞ましい健康を持ち続
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