てくるだろうと言っていました。だが富子の方は、クマの行方を気にして、町内の知人に逢えば聞きただし、用達しの往来にはあちこちに眼を配りました。
 ただ一度、十日ばかりたった午後、クマはのっそり帰ってきました。頭や首筋に傷や皮膚病をこさえ、後半身は泥に汚れていました。それを富子は抱きかかえ、魚の骨をしゃぶらせ、バタをなめさせ、乏しい米飯をたべさせ、刷子で全身をこすってやりました。クマはまん丸な眼を空想的に見開いてるだけで、なされるままに任せ、やがて縁側に寝そべりました。ところが、富子がちょっと席を立ったすきに、またどこかへ行ってしまいました。
 そのことを聞いて、仁木は富子に一種の憤懣を感じました。彼女の大柄な体格、なんだか幅の広い顔、細い眼付などが、善良を通りこした愚昧さに見えました。
 俺なら、せめて一日か二日、クマを監禁しておくんだったと、彼は胸の中で言いました。
 そして実際、彼はクマに対して、奇怪な監禁の方法を考えました。
 クマが再度失踪してから、また十日ばかりたった頃でした。もう朝夕は仄かに秋の気が感ぜられるような季節で、東京ではあちこちに、復興祭と神社の祭礼とを兼ねた祝いごとが催されていました。神輿がかつぎ出され、神楽と手踊と歌謡と手品とがごっちゃに行われ、後ればせの盆踊まで始められました。しかもそれが丁度、政府の方からの一般物価統制の強化の時期で、商店街復興の先駆をなす屋台店や露店が、多くは屏息してる時のことでした。
 その夜、仁木はちと腹の虫の居所がわるかったようでした。会社で、或る種の在庫製品のことについて、主任の江川と意見がくい違い、解決は明日のことにしようとごまかされてしまった、その故もありましたろう。けれど直接には、屋台の飲屋の雰囲気の故だったでしょう。
 だいたい、この復興祭なるものが仁木の気に入りませんでした。そこには、真の復興を志す気魄などはみじんもなく、戦争がすんでほっとした気持ちの、それも終戦後一年余りたった後のその名残りの、頽廃的なものがあるばかりで、ささやかながら露命をつないできたという、みみっちく有難がる享楽気分まで交っていました。だから、各種の催し物にしても、在来の形式から一歩も出でず、新たな工夫創意などは片鱗さえも見えませんでした。復興だから在来の形式の踏襲でもかまわないとはいえ、少くとも何等かの純化浄化はあって然るべきだったでしょう。敗戦に打ち拉がれて地面を匐ってるようなそれら群衆の中で、仁木はもう少しく酔いながら、孤独な憂欝に沈みこんでゆきました。
 復興祭だ、公然も内緒もあるものか、景気よくやっつけましょうや……などと屋台の飲屋の主人は言いながら、額には狡猾な笑みを浮べていました。種々の男が入れ代って、アルコールで調合した焼酎を飲んでゆきました。
 その奥の腰掛に仁木は腰をおろし、飲台に肱をつき、焼酎のコップと煙草とを交る代る口へやりながら、孤独な憂欝にますます沈んでゆきました。その憂欝はあらゆることを忘れさせる魅力を持っていて、異邦人めいた感懐を彼に起させました。
 彼がふと気がついてみると、あちらの端に坐ってる男が、鈎の手に曲ってるこちら側に坐ってる男へ、高飛車に突っかかり、こちらは卑屈に頷いたり弁解したりしていました。どちらも中年の男で、あちらは開襟シャツにズボン、恐らくは下駄でもはいていそうで、近辺の地廻りの者らしく、こちらは、着くずれた国民服で、恐らく地下足袋でもはいていそうで、けちな闇ブローカーらしく見えました。
「しみったれたことを言うもんじゃねえよ。酒飲みにはしみったれが禁物だ。」と言うのはあちらの男でした。「飲む金が儲からなけりゃ飲まねえ……なあ、おい、そんなら、金を飲んだらよかろう。酒飲みは酒を飲むものなんだ。ここの店に来る者あ、酒飲みばかりだ。なあ、おやじ、そうじゃねえか。……俺なんか、飲む金がなくっても飲むんだ。それでも迷惑はかけやしねえ。おやじ、そうだろう。そこがコツさ。……なあ、おい、しみったれちゃあ、酒がまずくならあ。飲む金がなくっても、飲めるだけ飲んでみな。豪勢なもんだ。」
 主人はいい加減にあしらっていました。がこちらの男は、へんに真面目とも見える卑屈さで、返事をしていました。
「そうですとも、しみったれは禁物ですな。……だから私なんかあ、弟が復員してきて、まあいくらか儲けてくれるから、こうして飲めるというもんです。……いや、弟がいなくなっても、やっぱり飲みますよ。全く、迷惑はどこにもかけませんさ。……ただの酒さえ飲まなけりゃあ、酔っ払って地面に寝ても、雲の上に寝てるようなもんですからな。」
 ただの酒さえ……のそのことが、またあちらの男の気に障ったと見えて、彼はそれに絡んでまた突っかかってきました。
 その時、仁木はふと立ち上って、二人の顔を
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