一度にじっと見据えました。――先刻から主人はあちらに背を向けて、こちらの男に、もう相手になるなと、目配せをしたり合図したりしていました。それに明らかに気付きながら、こちらの男はやはり、卑屈な応対を続けていました。しかも彼は、相手より体力もありそうだし、一段上の太々しいところを具えていました。あちらの男ばかりでなく、こちらの男に於ても、なにか下心あっての道化た応対のようでした。それを仁木は見て取りました。そしてそれらの狡猾なからくりに、仁木は突然嘔き気に似た憤りを覚えました。その時にもう、仁木は我知らず突っ立っていました。
 彼はちょっと、ふらふらと眩暈に似た気持ちがしました。それから、葦簀囲いのその狭い屋内に、自分自身を巨人のように感じました。油の煮立ってる黒い揚げ鍋、小皿物をこさえる俎板や庖丁、酒瓶やコップなど、器具類が玩具のように見えました。腕を一振りすれば、その屋台店全体をぶっ飛ばせそうでした。それは快楽的な魅惑でした。そして彼は、両手を腰の後ろでしっかと握り合せていました。うっかり弾みをつければ人間ぐらいわけなく殺せる自分の拳法を、習慣的に警戒したのです。そして彼は二人の男を一つ視野のうちに見据えながら突っ立っていました。
 なにかただならぬ気配に圧せられて、屋内はしいんと静まりました。二人の男も主人も他の二三の客も、無言で仁木を見守りました。その中で仁木は嘯くように葦簀張の天井を仰ぎ、勘定を聞いてそれを払い、のっそりと出て行きました。
 それから先のことを、彼は断片的にしか覚えていません。ほかの所でも一度焼酎を飲んだようでもあり、飲まなかったようでもありますが、それはどちらでも同じことでした。つまり、彼はすっかり酔っ払っていました。そしてだいぶ長く歩いて、家に帰りました。
 ぼーっと明るい月夜でした。
 家の庭で、猫が数匹、ぎゃあぎゃあ騒いでいました。彼は四つ目垣の外の方へ廻って、そっと窺いました。
 一匹の牝猫を中心にして、数匹の牡猫が蹲まっていました。もう牡同志の喧嘩はやめて、牝の隙だけを狙っていました。隙が見えると、二三匹が同時に忍び寄ってゆき、中の一匹がぱっと牝に飛びかかりました。そして暫くもみ合ってるうち、牝は急に怒って牡に噛みつきました。牡は少しく退去しました。すると牝は、また尾を振り頭をさげて、媚態の声を立てました。牡は三方からじりじりと忍び寄ってゆきました。
 それらの牡猫のなかに、クマの姿は見えないようでした。それでも仁木は諦めず、四つ目垣を乗り越してゆきました。すると、庭の隅の大きな水甕が眼につきました。全く誂え向きに水甕はそこにありました。仁木は手頃な石を拾ってきて、伏さってる水甕を少しく傾け、石を下にあてがって、猫を入れられるほどの口をあけておきました。
 猫の群れはまだ庭のあちらで騒いでいました。仁木はそちらへ行き、こんどは四つ匐いになって近づきました。だが、いくら探してもクマはいませんでした。仁木は怒って、牝猫を捕えようとしました。そしても少しのところで、牝猫はするりと逃げのび、それから遠くへ行ってしまいました。その間中一度もクマの名を呼ばなかったことを、彼は思い出し、なぜか後悔しました。
 彼は裏から家の中にはいりました。湯殿の戸は締りがしてなくて開きました。燃料不足のために風呂はもう長く沸かされず、ただ洗面所としてだけ使われていました。
 彼はそこに服をぬぎすて、手を洗い、顔を洗い、足を洗い、そして水をやたらに飲みました。水を飲んで却って更に酔いが出てきました。
 彼がそこに屈んで息をついていますと、寝間着姿の富子が、電灯の明りの中につっ立っていました。彼自身で電灯をつけたのか、或は富子がつけたのか、それは分りませんでしたが、とにかく電灯の明りの中に、裾を引きずった寝間着姿の富子が、幻影のように白痴のように立っていました。
 彼女は何か言ったようでしたし、彼も何か言ったようでしたが、その声は彼の耳に達しませんでした。彼女は彼を援け起しました。すると彼は彼女を抱きしめてその唇を吸っていました。へんに冷たい濡れた唇でした。その感触に彼がすがりついていますと、突然、彼女の肉体はくりくり盛りあがってき、半球形を無数につみ重ねたような工合になり、彼はその重みに抵抗しきれずに倒れました。そして倒れながら彼女にしがみつき、また彼女に援け起され、彼女の重みを抱きしめました。
 彼はもう力失せ、彼女が巨大な力になりました。彼女は彼をその居室に連れこみ、そしてどこかへ行ってしまいました。

 宿酔気味の頭をかかえて仁木三十郎は起き上りました。富子の顔付や態度は、いつもと少しの変りもありませんでした。それが却って意外に思えたほど、仁木自身はなんだか落着きを失っていました。出戻りの大柄な中年女にとっては、前夜
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