のことぐらいは、仁木が記憶してる限りのことぐらいは、何でもないことだったかも知れません。仁木にとっても、所謂接待婦の肉体なども識っており、それは何でもないことでした。けれども、それ自体は、何でもないことでも、そういうことが起ったのが、そしてつまりは、そういうことを彼自身がなしたのが、異様に感ぜられました。屋台店でのあの眩暈に似た魅惑も、異様でした。彼は自分の前後左右に、一種の空間、自由自在な空虚を、見出したような気がして、その中にしっくり落着けませんでした。
 そのままの気持ちで、彼は会社に行き、事務を執りました。退出まぎわになって、江川から、あのことをゆっくり相談したいから附き合ってくれと言われました時、彼はただ無造作に承諾しました。在庫製品についての話だとは分りましたが、もうそれには大して関心が持てませんでした。
 江川に連れられて行った先は、焼け残りのくすんだ花柳界で、そこに仁木は、会社関係の宴会で前にも来たことがありました。こんどのは、ちょっとこじんまりした待合で、中はへんに静かでした。ところで、そこには既に中本が来ていて、二人がはいってゆくと、間もなく芸者たちも立ち現われ、酒がはじまりました。仁木は会社で中本を何度か見かけたことがあり、中本の方でも仁木を知ってる筈でした。それにも拘らず、中本は仁木を鄭重に扱って、改めて名刺[#「名刺」は底本では「名剌」]まで差出しました。名前の肩に、金谷組総長とあるところからみると、相当な顔役らしく思えました。応対万事、折目折目は礼儀正しく、あとはぞんざいに流して、目玉をぎょろりとさしてるところなど、それと頷かれました。五十年配で、洋服の膝を折っているのが窮屈そうでした。
 その中本が、既にそこに待ち受けていたということによって、江川の相談なるものも、もう相談などを通りこしているのだと、仁木は悟りました。
 事柄は甚だ簡単なものでした。――会社の工場で、製品の一つとして電熱器を試作していました。当時新たに世に出てる電熱器は、ニクロム線が露出していて切れ易く、而も熱量の調節の出来ないものばかりでした。それを少しく改良して、二つの線に切り変えて二様の熱量に調節出来るようにし、取り外しの出来る薄い鋼板を上に被せてみたのです。つまり、昔は普通にあった電熱器の、も少し粗末なものを拵えてみたに過ぎません。主な材料は手持品のなかにありました。ただ、それが多量にないため、試作品ということにして、ストックされていたのです。然し、やがて、燃料欠乏の冬期をめあてにそれが売り出され、多分の利潤を得て、年末の特別手当の増額となるであろうということを、この小さな会社の従業員たちは暗黙のうちに了解していました。そういうところへ、突然、中本の手に在庫電熱器を引渡すという議が起りました。そして代償としては、コード用の銅線ばかりでありました。その物々交換の交渉は、専務と中本との間でなされ、専務はその決定を従業員の幹部へ通達しました。幹部連中は反対しました。中本はもともと、各方面に関係してる社長のところへ親しく出入りしてる男だということが、周知の事実であり、そこから或る疑惑が起りました。また、折角の製品が、中本の手に渡れば、露店の闇商人などにばらまかれる恐れがありました。また、物々交換となれば、会社の保有現金についての不安もあり、それは直ちに従業員全体の懐に影響しますし、且つ、交換の価格比率についての不安もありました。そして専務と談合の末、製品は或る価格で中本に譲り、中本は或る価格で銅線を納入するという、甚だばかげた妥協に結着したようでした。
 その間、仁木はいつも素朴に、問題は従業員の総意に問うべきだと言いました。主張はせず、問わるれば言うだけでした。最後までそう言いますので、江川がよく相談しようということになったのです。
 然し、もう相談することなどはありませんでした。
「あの問題は……、」とそういう言い方を江川はしました。「実はつまらんことだね。第一、試作品だからね。」
「ええ、試作品です。」と仁木は気の無さそうに答えました。
「よく考えてみれば、大して問題にはならんようだ。」
 そこへ、中本が横から口を出しました。
「試作品をべらぼうな値で押しつけられちゃあ、こっちがたまりませんね。会社の信用にも関わりますぜ。」
「いや、試作品はいつも最優秀品ときまっていますよ。ただ箇数が少いのが難点でしてね……。あの材料を多量に、あなたの方でなんとかなりませんかね。」
「さあね、私もそれを考えてるんだが……。」
 そんな風に、話はもう問題を通りこして、一般の経済情勢や政府の施策に及んでゆき、間々に巷説や逸話を織りこみました。
 仁木は黙って酒を飲みました。彼のそばについてる芸者が、杯があけばすぐに酒をつぎました。それが後ではう
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