と、卒直に言ったことはありました。また、会社のいろんな運営方針については、従業員のすべてに自分の会社だとの意識を持たせるような、ただその一線だけを進むべきだと、卒直に言ったことはありました。いずれも卒直な素朴な言葉で、それがどうして、癇癪玉だの直接行動だのに関係がありましたろうか。それよりも寧ろ、彼が憂欝そうに黙りこんで煙草など吹かしてる、その態度こそ、人目につき易かったのでありましょう。血気盛んな筈の三十歳あまりで、顔色は浅黒く、頭髪は硬く、眼は輝き、口許には冷笑を浮べ、肩がいかり、手がへんに大きな、そういう彼が憂欝そうに黙りこんでるところは、なにか乱暴な爆発が起るかも知れないと思わせるものがありました。
 然るに仁木自身は、心に別種な惧れを懐いていました。癇癪玉とか直接行動とかいうことは、一つの形を具え一つの方向を持ってるもので、時代的に何等かの政治思想を予想させるのでした。実際、日本は一大革命に突入していました。敗戦後の軍隊の解散と連合軍の進駐。軍国主義及び官僚主義から民主主義への転向。戦争放棄を声明し主権を人民に帰せしむる新憲法の起草。戦争犯罪の主脳者達の逮捕と裁判。戦時中の指導者層の公職からの追放。主要財閥の解体。勤労者層の自覚と労働運動の勃興。言論や出版や結社の自由、其他さまざまの事柄によって、所謂無血革命が成就されようとしていました。ところが、仁木が周囲に日常見る大衆は、それらの革命的事柄に殆んど無関心であり、殆んど無反応であり、相変らずの小市民的な利己主義と卑俗さのうちに低迷していました。そこには苦悶もなく明朗さもなく、ただ呆けたような憂欝があるばかりでした。そして仁木自身も、新聞紙上で華かに謳われてる無血革命そのものには、大した関心を持ちませんでした。政治的に与えられた自由とか、或は獲得すべき自由とかは、復員帰還者として多少無理押しな行動をしているうちに、もうすっかり消化しつくして、端的に人間としての自由な境地にさ迷い出ていました。そこへ、大衆の呆けたような憂欝が反映してきて、彼の自由な心境を曇らせました。そのことに彼は内心で反抗しながら、ますます無口になり憂欝になってゆきました。俺はどんなことを仕出来すか分らないという危惧が、胸の奥に湧いてきました。もしも乱暴な爆発が起るとすれば、それは、平井や江川が気遣ったのとは別種なものとなったでしょう。
 暑い夏の日々が続きました。仁木は雷雨と雷鳴を待ちこがれましたが、それらしいものは一向に来ず、強い日差しに、焼け跡の菜園の作物は萎れがちでした。
 その暑い中を、仁木は黙々として会社へ通い、黙々として事務を執りました。組合運動には何の熱意も示しませんでしたが、現場の工員たちからは信頼の眼で見られていました。雑貨の小さな店舗を出してる兄の商売を、彼は好まず、そちらへは殆んど顔を出しませんでした。けれど、復員者仲間の一人が闇商売をやっているのへは、好意を見せて、会社関係からいろいろ便宜をはかってやりました。そして彼の許へもいろいろ物資がはいってきました。それを、平井夫婦や富子はたいへん喜びました。然し彼は、お世辞を言われてもただむっつりしていました。
 酒を飲むのが彼の唯一の道楽のようでした。屋台の飲食店がたくさん並んでる方面へ出かけてゆき、メチールの危険の少い馴染みの飲屋で焼酎をあおりました。梯子飲みをすることもありました。その調子は、そういう屋台店の市井的気分を愛してるのではなく、逆にそれを軽蔑しながら、ただ酒だけを愛してるような風でした。
 酔って帰ると、彼は雑誌を読むか、または黒猫のクマを相手に遊びました。クマはその黒い顔に丸い眼を光らしてるだけで、彼からどう扱われようと平気で、信頼しきってるのか、全く従順なのか、彼に全身をゆだねますが、やがて倦きてくると、爪を立てて手掛りを求め、ぱっと飛びのきました。それから外を一廻りし、戻ってきて、まだ起きてる彼から声をかけられると、長い尻尾をまっすぐに立てて、その先で唐紙を撫でながら、恥かしげに寄ってきました。

 そのクマが、或る時、失踪してしまいました。はじめは、さかりがついて、一匹の牝猫を中心に、集まってきた数匹の猫と一団になり、ぎゃあぎゃあ騒ぎたてていましたが、そのままどこかへ行ってしまって、一週間たっても、十日たっても、戻って来ませんでした。
 仁木三十郎は、猫の自由恋愛に敬意を表して、縁先や庭の隅や菜園の中など処かまわず、彼等がうるさく鳴きたて騒ぎたてるのをじっと我慢していましたが、やがて、その賑やかな一団がどこかへ退散してしまい、それと共にクマが行方をくらましてしまったのが、気にかかりました。
 平井夫婦は、クマを迎え入れたと同じ平気さで、クマの失踪を見送りました。さかりがついて遊び歩いてるのだから、やがて帰っ
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