他に知られたくない事情があった。この事柄も別な物語でなければ述べられない。
そこで、私は暫くして立ち去ったのである。
星野武夫が張浩に案内されて来た時、秦啓源は一人ぽつんとしていた。そこは二階の広間で、幾つもの大きな卓が並んでいて、客は入れ混みになっている。秦は窓際の隅の卓にいた。
星野はつかつかと歩み寄っていった。
「やあ、しばらく。ずいぶん探しまわっていたんですよ。逢えてよかった。」
秦は立ち上って、笑顔で、黙って右手を差し出した。それから、席について、ケースの煙草をすすめた。張がマッチの火をすった。
以前通りの秦だった。こわい毛の長髪、澄んだ深い眼差し、中国人にしては珍らしい秀でた鼻筋……。だが、頬の皮膚になんだか血色のうすい荒みが漂っている。黒い洋服はきっかり体躯についた仕立て方で、襟の折返しの工合か肩の袖付の工合か、それとも淡色の編みネクタイの影響か、へんに伊達好みな気味がある。その頬とのちぐはぐな印象に、星野はなにか冷りとしたものを感じた。
「食事は……。」と秦は尋ねた。
「まだです。別に食いたくもないので、ウイスキーを少しやったところですよ。」
「そう、あなた
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