た。
 よく気が廻る星野のことだから、普通ならば、ちょっと訝しく思うところだった。秦啓源は彼の宿所を知っており、しかも彼に宛てた名刺には室番号まで書き添えているのに、今まで、姿を見せないばかりか電話さえもしなかったのである。そのことを星野は、旅先の習わしで不問にしたのか、或は忘れていた。とにかく彼は、虚を突かれた形だった。

 秦啓源の方では、星野を迎えることを、嘗て親しかった知人への儀礼とぐらいにしか思っていなかったらしい。
 その夕方、実は、私は彼と三馬路の一隅で、秋の季節の無錫料理を味わっていたのである。無錫の近くに彼の生家があって、それは可なりの豪家らしく、そこへ向後幾年間か引き込んでしまうことに、彼の心はほぼ決しかけていた。いろいろなことで、上海に於ける彼の身辺に脅迫が重なりつつあるのは、私にも分っていた。然しこの事柄については別な物語に譲ろう。
 郷里の無錫に心が向いている彼は、無錫料理を好んだ。その夕方、私も彼と共に老酒《ラオチュウ》を飲みながら大石蟹《ドザハ》をつっつき、槍蝦《チャンホ》をかじり、蚶子《フウツ》をほじくった。清水のなかに住むこの大蟹と小蝦と小貝との生肉に
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