その情景は遠く、蘇州美人の面影は手近にぼやける……。街衢の騒音がすべてを呑みつくそうとするのだ。そういう状態で星野がぼんやりしている時、静に扉が叩かれて、老年の室付ボーイがはいって来た。一葉の名刺を差し出した。
大型の名刺で、ただ姓名だけ、秦啓源と印刷してあった。鉛筆で簡単な書き込みがあった。――御隙ならば御来駕願い度く、この使者が御案内仕る可く、当方より参向すべきを、失礼の段御容赦下され度く候。
星野は飛び上った。廊下には一人の中国人が待っていた。招じ入れると、彼は恭しく一揖して、扉のそばに佇んだきりだった。星野はじっと眺めた。三十年配の頑丈な男で、折目の着くずれた背広服をつけ広い額と低めの鼻とが目についた。
星野は行くことにきめた。
「場所は、遠いんですか。」
「近くであります。」と男ははっきりした日本語で答えた。
星野は電話にかかって、その晩逢うことにしていた知人に、差支えが出来た旨を断り、帽子を取って出かけた。途々、彼は秦啓源の近況を案内者に聞くつもりだったが、案内者はひどく鄭重な無言な態度だったし、ホテルの前には三輪車が待たしてあった。すべては逢ってからだと星野は考え
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