く言い交していたらしい。正式に結婚するつもりだとも秦啓源は公言していた。それが、どうした事情か、梅子は他にも旦那を持つと共に、暫く座敷を休んだ。
 その頃のこと、秦と星野と、やはり文学者仲間の田中と、三人で、或る夕方、虎ノ門の近くを歩いていると、梅子に行きあった。
 夕方といっても、残照の澄んだ、よく見通しのきく一刻だった。梅子は一人で、街路の向う側を歩いてきた。それを秦は真先に見付けた。ひきつめ加減の洋髪で、着物の沈んだ臙脂色の縞柄に、帯の牡丹の花の金色が浮きだしている。秦は何とも知れぬ奇声をあげた。そして三四歩駈けだした。とたんに、疾走してきた自動車が前を掠め去った。秦は車道の真中に佇んだ。
 向うの人道では、梅子が一足ふみ止った。顔色をかえて見つめた。そして一瞬間、軽くしかししとやかにお辞儀をして、あのなよなよとした彼女が、小股の足並も乱さず歩み去ってしまった。
 この出会の情景は、星野には極めて当り前のことに思われたが、秦啓源には奇妙な印象を与えたらしい。彼は暫く口を利かなかった。よろめくような歩き方だった。そしてその夜、銀座裏のバーで酔っぱらいながら、異民族間の距ては如何とも
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